第15話 砕けた翼
リュシエンヌが倒れたと聞いたのは、王妃への報告から五日後のことだった。
コンラートが息を切らして工房に駆け込んできた。両手は何も持っていない。いつも何かしら握っているこの子が手ぶらで走っている──それだけでただごとではないとわかった。
「ノエルさん、大変です。リュシエンヌ様が執務室で意識を失って──」
わたしは工具を落とした。金属が床を打つ音が工房に響く。拾おうとして、拾えなかった。
ダリオが立ち上がった。椅子が後ろに倒れる。血の気が引き、唇が真一文字に結ばれていた。どんなときでも表情を崩さないこの人の顔全体が蒼白になっている。
「行くぞ」
二人で廊下を走った。リュシエンヌ様は六十代。三十年以上にわたり宮廷の記録を管理し続けてきた重圧は、体に刻まれている。以前お会いしたときも頬がこけ、目の下に深い影があった。それでも背筋を伸ばし、鋭い目で書類を読んでいた人だ。
医務室の白い寝台にリュシエンヌが横たわっていた。蒼白な顔色に浅い呼吸。いつもきっちりと結い上げていた白髪が枕にほどけて広がっているのが、ひどく痛々しかった。
「容態は」
ダリオの声は硬く、感情を押し殺している。
「過労と、心臓への負担が重なったものと思われます。意識はありますが、当分の安静が必要です。心臓の鼓動が不規則になっております」
リュシエンヌが薄く目を開け、わたしたちを見てかすかに口角を上げた。あの鋭い目が、今は柔らかい。
「大げさね。少し疲れただけよ」
「少しじゃないでしょう。ここ数日、ほとんど眠っていないと聞いています」
ダリオの声に珍しく感情がにじんでいた。叱りつけるような、けれど震えを含んだ声。この二人の間にはわたしには窺い知れない長い時間がある。
リュシエンヌがわたしを見た。
「ノエルさん。少し二人で話せるかしら」
ダリオが渋々席を外し、医務室にはわたしとリュシエンヌだけが残った。
「聞いて。わたしが倒れたことで、記録室の管理が一時的に空白になる。三十年間、一日も空けなかった場所に穴が開く。その隙にヴェンツェル殿下が動くかもしれない」
「記録を改ざんする、ということですか」
「可能性がある。わたしが管理していた間は、すべての出入りを記録し、書類には封印を施していた。手を出す余地がなかった。でも、代わりの管理者が入れば──都合のいいように差し替えることも不可能ではない。殿下はそれを待っていたかもしれない。わたしが倒れることを」
弱々しい体とは裏腹に、その眼差しは鋭かった。三十年間、嘘と虚飾の渦巻く宮廷で事実を守り続けた人の目だ。
「ノエルさん。あなたに預けたいものがある」
枕の下から小さな銀色の鍵を取り出した。古びているが精巧な造りで、小さな歯車の模様が刻まれている。
「記録室の金庫の鍵よ。中には、ヴェンツェル殿下とベルント商会の取引記録の写しが入っている。三十年分の。魔石の不正取引、価格操作、宮廷への納品の水増し。すべてが日付と署名つきで」
「わたしが預かるのですか」
「ダリオは目立ちすぎる。あなたなら──まだ宮廷では新参だから、警戒されにくい」
新参であることが武器になる。誰もわたしに注目していない。透明人間であることが、盾になる。
掌に収まるほどの鍵なのに、ずしりと重かった。
「リュシエンヌ様。必ず、お預かりします」
「ありがとう。それと──もうひとつ」
リュシエンヌの視線が窓の外に向いた。
「わたしがいなくなった後のことを、考えておきなさい」
「いなくなるって──」
「倒れたのは今回が初めてじゃないの。去年も一度。その前の年も。心臓がね、もう限界に近いの。侍医にも言われている。わたしに残された時間は、そう長くない」
言葉が出なかった。鍵を握る指に力が入る。
「泣かないの。わたしはまだ生きているわ」
リュシエンヌが微笑んだ。疲弊した顔に浮かぶ穏やかな笑みが、胸を締めつける。自分の死を受け入れた上で、残すべきものを残そうとしている人の顔だった。
「もう一つ、覚えておいて。アルヴィン侯爵──あの人は、根っからの悪人ではないわ。しがらみに縛られているだけ。いつか、鎖を断ち切る機会が来る。そのとき、手を差し伸べてあげなさい」
「アルヴィン侯爵を……味方にしろ、ということですか」
「敵と味方は、固定されたものではないわ。状況次第で変わる。わたしはそれを三十年見てきた」
医務室を出ると、ダリオが壁にもたれて待っていた。腕を組み、目を伏せている。
「鍵を預かったか」
「ええ」
「リュシエンヌ様は──」
「長くないと、おっしゃっていました」
長い沈黙。遠くから庭園の噴水の音がかすかに聞こえる。
「あの人は三十年、宮廷を守ってきた。記録という盾で。感情ではなく、事実で。お前と同じだ」
「わたしと?」
「事実を武器にする人間は、宮廷では少ない。リュシエンヌ様は──そういう宮廷の中で、たった一人、事実を積み上げ続けた。三十年間」
弔いのような静かな声だった。まだ生きているのに──でもダリオもわかっているのだ。
「わたしにできることはありますか」
「技術を磨け。実績を積め。リュシエンヌ様がいなくなった後も、お前が立っていられるだけの地盤を作れ。それが──今お前にできる、最も大事なことだ」
「はい」
工房に戻り、鍵を作業台の引き出しの奥にしまった。工具を取り、歯車に向かう。表面上は何も変わらない。でも心の奥で、守るべきものがまた一つ増えていた。エーファ、工房、そしてリュシエンヌ様が積み上げてきた三十年分の真実。
三日後、リュシエンヌが亡くなった。
眠るように、と侍医は言った。最後まで意識はあり、枕元の書類に手を伸ばしていたと。仕事をしながら逝ったのだ。最後まで休むことを自分に許さなかった人。
工房の片隅で、一人きりで泣いた。声を殺して。九年間涙を枯らしたはずなのに止まらなかった。後になって、コンラートが扉の前に水の入った杯を置いてくれていたことを知った。
リュシエンヌの葬儀は宮廷で執り行われた。白百合──リュシエンヌが好きだったという花が山のように積まれていた。
葬儀の後、ダリオが言った。
「これからが本番だ。重しが外れた──ヴェンツェル殿下にとっても、わたしたちにとっても」
鍵を握りしめた。リュシエンヌ様が遺したものを、無駄にはしない。
その夜、工房の机に差出人のない手紙が届いていた。便箋には一行だけ。
『記録室に、明日の夜、人が入る。気をつけて』
あの侍女の筆跡だと、直感が告げていた。




