第14話 伯爵夫人の嘘と侍女の沈黙
技術の公開性を訴える意見書を技術委員会に提出して、三日が経った。
返答はまだない。アルヴィン侯爵が委員長である以上、ヴェンツェル殿下の意向を無視した判断は出しにくい。形式的な審議に時間をかけ、結論を先送りにする──それが侯爵の常套手段だ。
その間もわたしは手を動かし続けた。依頼された修理をこなしながら、暖房魔道具の第二世代モデルの設計を頭の中で進めている。改良を止めなければ、最新の技術は常にわたしの手の中にある。追いつかれる前に、先へ行く。
ある昼下がり、廊下で思わぬ人物に出くわした。
イルマの侍女だ。栗色の髪をきっちりと結い上げた、二十代半ばの女性。あの展覧会の日、イルマの隣で冷たい目を向けていた──あの女性が、柱の陰に隠れるようにして声を殺して泣いていた。
肩が小刻みに震え、手で口を押さえて嗚咽をこらえている。隠れて泣くことに慣れた人間の泣き方だった。わたしはその泣き方を知っている。九年間、わたし自身がそうだったから。
通り過ぎるべきだった。イルマ側の人間に関わるのは得策ではない。でも──屋敷の隅で声を殺して泣いた夜を思い出すと、足が止まった。あのとき誰かが手ぬぐいを差し出してくれたら、どれだけ救われただろう。
「大丈夫ですか」
侍女がびくりと顔を上げた。涙の跡が頬に光っている。
「あ、あなたは──ノエル・カペル」
「水を持ってきましょうか」
「いえ、けっこうです。何でもありません」
深追いはしない。わたしは懐から手ぬぐいを一枚出し、差し出した。
「よかったら使ってください」
侍女は迷った後、受け取った。指先が冷たい。
「……ありがとうございます」
「風邪を引かないよう、早めに温かい場所へ」
それだけ言って立ち去った。振り返らなかった。泣いているところを見られた恥ずかしさを、これ以上増やしたくなかったから。
工房に戻ると、ダリオが珍しく腕を組んで壁にもたれていた。手を動かしていないダリオは珍しい。
「リュシエンヌ様から連絡があった。ベルント商会の独占申請に、新しい動きがある」
「どんな動きですか」
「イルマ・ハイリゲンが、王妃様に直接陳情したらしい。暖房魔道具の技術は、ハイリゲン伯爵領で発見された魔石を使っているので、伯爵家にも権利があると主張している」
「──嘘です」
思わず椅子から腰が浮いた。暖房魔道具の魔石は王立工房の備品で、入荷記録がある。ハイリゲン伯爵領の魔石とは産地も品位もまったく違う。
「わかっている。だが王妃様はその方面に詳しくない。イルマの言葉を鵜呑みにしかねない」
「王妃様には、以前わたしが音楽の小箱を直した縁がある。直接お話しできれば──」
「すでに手配した。明日、王妃様のお時間をいただけることになっている」
ダリオの行動は早い。何が起きるかを予測し、起きる前に手を打つ。
「ダリオさん」
「何だ」
「なぜ、そこまでしてくださるのですか。わたしのために」
ダリオは作業台に目を落とした。手の中で小さな歯車をくるくると回している。
「お前のためだけじゃない。工房の技術が私物化されるのを防ぐためだ。それと──」
「それと?」
ダリオはそこで言葉を切った。歯車をテーブルに置き、立ち上がった。
「明日の準備をしろ。王妃様に見せる資料をまとめておけ」
話を逸らされた。でも追わなかった。行動で示してくれている。それで十分だ。
◇
翌日、王妃の私室を訪ねた。ダリオが隣を歩くとき、歩幅がわたしに合わせて狭くなっているのに気づいた。以前はわたしがダリオに合わせて早歩きをしていた。いつからか逆になっている。
王妃様は窓辺の椅子に座り、あの音楽の小箱を手にしていた。
「ノエルさん。小箱は今日もよい音を聴かせてくれるわ」
「恐れ入ります」
「それで──ハイリゲン伯爵夫人の陳情について、あなたの見解を聞きたいの」
資料を広げた。暖房魔道具に使われている魔石の出所、工房の備品台帳との照合、ハイリゲン伯爵領の魔石の産出記録。すべてリュシエンヌが管理する宮廷の公的記録と一致する。
「この魔道具に使われている魔石は、すべて王立工房の正規備品です。産地はオスヴァルト鉱山。一方、ハイリゲン伯爵領の鉱山は風属性の低品位魔石しか産出しておらず、暖房魔道具に使用する火属性の中品位魔石とは種別が異なります」
王妃が資料に目を通すにつれ、穏やかさの中に鋭さが宿っていった。
「つまり──イルマの申告は事実と異なる、と」
「はい。伯爵夫人の主張には根拠がありません」
王妃は小箱をテーブルに置いた。
「ノエルさん。あなたは、わたしに嘘をつかないわね」
「はい。技師として、事実だけをお伝えします」
「ダリオ。あなたの保証は」
「ノエルの言葉は正確です。わたしの名にかけて」
王妃が静かにうなずいた。
「わかりました。この件は、わたしから委員会に伝えます。イルマの陳情は却下します」
安堵が胸に広がった。でもまだ気は抜けない。手札が減るたびにイルマの行動は先鋭化する。窮鼠は猫を噛む。
帰り道、廊下であの侍女とすれ違った。わたしの手ぬぐいを小さく畳んで持っている。目が合い、何か言いかけて──唇を引き結び、小さく会釈だけして去っていった。
声にできない言葉を飲み込む苦しさが、あの背中からにじんでいた。




