326 親孝行とは
残念な事に、修斗は早い帰還とはならなかった。
篠塚との打ち合わせが長引いたらしく、粗方夕食の準備を終えた辺りで戻ってきたので、周の体力を節約とはいかなかった。
「……お帰り」
手が空いていた周が一旦出迎えるのだが、明らかに周だけ疲弊度が違う事に気付いたような修斗は薄く苦笑いを向けてきた。
「ただいま。……お疲れのようだね?」
「一人で姦しい人が居るんですよねこれが」
「志保子さんはいつまでも若いからね、見習わないと」
暗にお宅の奥さんどうにかしてくれ、という事なのだが、修斗はにこやかなまま一人パーティー状態の志保子を咎める様子はなさそうだ。
「諦めてるじゃないか」
「私は賑やかな志保子さんも愛しているからね」
「そうだった父さんはそういう人だった」
よく考えずとも、修斗は自分の妻である志保子を溺愛しているし、全肯定……とはいかないがある程度の事は許容するおおらかさがある。
とはいえ必要な所では手綱を握って制御出来るので、ここは必要がない場面と見做されたのだろう。
「君もそういう人だろうに」
「真昼はうるさくないですー」
「物静かで周とぴったりだよ」
「……うるさい」
「おやおや、これでも志保子さんと比べたら静かな方なんだけどね?」
何に対してのうるさいなのか理解している癖に、こうしては柔らかく逸らしつつ相手をからかう所が食えない所だ、と息子的には父親の悪癖に舌打ちしそうだったが、周の背中に「何ー私の話してるのー?」と声がかかったので留まる。
志保子も玄関に来て修斗を迎えに来たのだろう。真昼が居ないのは、キッチンでメインシェフとして腕を振るっている最中だからだ。
「志保子さんは今日も元気だな、と」
物は言いようである。かなり綺麗な部分だけ切り取った上にポジティブ一色且つ曖昧でふわっふわな言葉で誤魔化しつつ形を整えた表現となっていた。
修斗の性格的にそれが嫌味でも何でもなく上手い事解釈したんだなと分かっているらしい志保子は、敢えてどういう会話をしたらそうなったのかと追求する事もなく「そりゃあもちろんよ」と実に溌剌とした笑顔を顔いっぱいに表現する。
「そこに真昼ちゃんが居ますもの、満ち溢れるに決まってるわ」
「そのせいで俺があぶれてるんだが」
パワーが満ち溢れた結果周が中に入れず追いやられて冗談の波に体を何度も持っていかれそうになっているのだが、そこの所はどう思っているのか。
「あら、それはあなたがグイグイ入ってこないのが悪くてよ」
「母の日に邪魔する程野暮じゃないが」
「まあ。周も可愛い子供である事には変わりないんだけどねえ、まあ可愛さは真昼ちゃんの方が圧倒的に上だけど」
「周は椎名さんが嬉しそうにしていたらそっちを優先しちゃうからねえ。愛だね」
「親って子供をからかわずにはいられないものなの?」
「からかってはないよ。ただ、椎名さんが本当に大切なんだなと思っているだけ」
「大切じゃなきゃここまでしないだろ」
「それはそうだけどね。志保子さんはにやにやしない」
「はぁい」
あまりからかいすぎるな、と柔らかく窘めた修斗にはもう少し早めの制止を……と少しばかり恨みがましげに湿った眼差しを向けた周だったが、リビングの方から聞き慣れた足音がしたので表情をいつものものに戻す。
その後間髪入れず、一段落がついたらしい真昼がエプロンを着たままひょこりと顔を覗かせた。隣で志保子がにやついている事については頑として反応を拒んでおく。
「修斗さんおかえりなさい、用事は済んだのですか?」
「ただいま、でいいのかな? 私の用事は済ませてきたよ。折角椎名さんが呼んでくれたのに時間が少なくなって悪いね」
「いえそんな事は!」
「取り敢えずこのあとは特段用事もないし、この家でゆっくりさせてもらうつもりだよ。いいかな?」
「勿論です」
にっこりと人好きするような、しかし演技でもなんでもない素の表情で頷いた真昼に、修斗も同じように微笑む。
性格的には周より真昼の方が修斗に似ている節があるのだが、本人達は気付いているのかどうか。
まあ相性はよさそうでよし、と和やかな空気を漂わせる二人を眺めていると、隣の志保子が「ふふ」と堪えきれなかったらしい笑い声を上げた。
「何で笑ったの今」
「いえ、すっかりここに来るの慣れてるのねえ、と」
「……いいだろ別に」
「いいわよぉ?」
よいのかもしれないが、志保子の態度は周にとって大いによろしくない。
「お二人はどうかしましたか?」
「さて、どうしたんだろうね」
修斗は察していそうだったが周を慮ってか言及を避けていたので、周は真昼にバレないように志保子を睨むだけで済ませておいて真昼の視線から逃れるようにリビングに戻った。
四人が揃うというかなり珍しい夕食は、豪華なものとなった。
真昼は宣言通りおもてなしをするという事で普段食べているものより凝った、程よく豪勢な料理を並べている。
彩りに気を遣いつつも決して味を疎かにしないようにした品々で、普段真昼の料理を食べ慣れている周でもかなり期待してしまう並びになっていた。
「その、腕をよりにかけて……と言い切れるか自信ないのですけど、精一杯の作りましたからおもてなしはさせていただきますね」
ここまできっちり並べておいて自信がないのは不思議なものだが、やはり良くも悪くも他人に出すのは緊張の度合いが違うのだろう。
「そこは自信持ってくれていいんだけどなあ。真昼の料理が美味しいのは一番俺が知ってるぞ。俺が保証する」
「周の保証がなくてもたのしみなのだけどね。この子舌超えてるから真昼ちゃんは自信持っていいのよ?」
「父さんの料理美味しいからなあ、舌も磨かれたよな」
志保子も修斗も料理は出来るし交代交代で料理を作っていたが、特に修斗の料理は凝ったものや他国の料理が頻繁に出てきていたので、味の種類も日本料理とはまた違ったものを体験させてくれた。
それに加えて食事マナーの練習という事でそれなりによい店で外食もある程度させてもらったので、確実に味覚は鋭いし味の判定もシビアになっている自覚はある。
「何で私は挙がらないのかしらねえ」
「母さんはわんぱく小僧に食べさせるタイプのが得意だろ! 美味しいけど量優先だったろ!」
「ええそうですけどね!」
基本は志保子が作っていたが、共働きなのでどうしても休日に作る事の多い修斗と違って手早さや量、栄養の方を重視していたため、修斗と比べればどうしても味の決まり方は劣ってしまう。
なので味については嘘を言えないので修斗の方を選ぶが、子供が成長するのに必要な栄養を込めてくれていたのは志保子の方で。
どちらも良し悪しがあるし、そもそも忙しいのに作ってくれていた事にはとても感謝しているのだ。
「まあ、よく食べてくれたわよね。そのせいかこんなに伸びちゃって」
「そこは二人に似て良かったと思う、ほんとに」
「そこは」
「今日滅茶苦茶噛みつくじゃん」
今のは別になんら当て付けでもなかったのだが、勝手に当て付けを見出した志保子に周は肩を竦めた。
「母の日なのに敬いが足りません」
「どうもすみませんね。誠心誠意おもてなしさせていただきます」
「私につくのは真昼ちゃんがいいわぁ」
「おい」
「ふふ」
親孝行してほしいのかほしくないのかどっちなんだ、と瞳を細めながら視線で問うが、志保子は愉快そうに笑って周をからかうだけだとも経験から理解していたので深々とため息と落とす。
突っ込みたい所はあれど、一日早いが本日の主役様のお気に召すままにするのがおもてなしというものだろう。
まあ今日くらいは、と思いながらお客様である両親に並べたばかりの料理を勧めると、二人共丁寧に手を合わせて食事への感謝を口にしてから食事に手を出した。
「ん、美味しい」
最初はアミューズとして用意したピンチョスから食べているが、ただ野菜や魚介類を刺したものやパンに乗せたもの、という訳ではなく、素材の味を活かすように調理味付けしつつ調和させた組み合わせとなっていて、ついつい次を求めてしまうものに仕上がっている。
「お口にあったならよかったです」
素直な称賛の言葉に、やはり少し緊張していたらしい真昼の体から強張りが抜けていくのが見えた。
「もう合う合う、ここにワインがあったら最高だったでしょうねえ」
「初っ端から飛ばそうとしないでくれ。あとラインナップ的に合うだろうなってのは想像つくけど、未成年の家に酒を求めるな」
「うーん残念。また作ってもらう機会を設けるしかないわね。真昼ちゃんが大人になるか私達の家で作るかのどちらかになっちゃうけど」
「私でよければ是非」
「真昼は母さんを甘やかさないでくれ」
「えーいいじゃなーい。真昼ちゃんの料理を毎日食べてる周には分かんないわよぅ。母の日くらいいいじゃなーい」
「まだ母の日じゃないんだなこれが」
「じゃあ明日はもっと敬ってもらおうかしら」
「はいはいありがとうございます」
「んもぅノリ悪いんだから」
お酒が入っていないのに酔っているのテンションなのはこれ如何に。
どうにかしてくれとストッパーを見ても、そのストッパーもにこにこと笑うだけで止める気配は微塵もなかった。
息子の勘であるが、これは志保子が楽しそうで何よりだ、と満足気にしているのだ。十中八九止める事はない。
そもそも修斗本人も真昼の料理に舌鼓を打っているので、止める必要が見当たらないのかもしれない。
これは周もスルーは精神安定に必要だ、と諦めた方が早そうである。
もう母の日なんだから、志保子が満足しているなら真昼が迷惑がらない限りは放置でいいか……と投げやりな結論を出した周は、じんわり滲み出した腹部の切なさを解消すべく自分も料理を口にする事にした。
自分も手伝いをしているが、やはりというか真昼の味付けは周好みに尽きる。
親子だからなのか味覚が似ている修斗や志保子も普段より二割程気分が浮かんだような明るい表情で食べ進めており、その様子に真昼も上機嫌になっていくとてもよい空間が出来上がっていた。
「美味しいね、これ私が知らない料理だ」
「これはスペインの郷土料理を少しアレンジしたもので……」
真昼のレパートリーは小雪さん仕込みであるし自分でも模索しているそうなので、修斗が舌を巻く程に様々なレシピが頭に入っている。
今回提供したものも周はてんで知らない料理で、大真面目に迷いなく検索エンジンに料理名を放り込んだくらいには知らないものだった。
食べてみると異国情緒を感じながらも違和感を強くは感じさせない、真昼によって日本ナイズされた丁度いい塩梅の味付けになっており、修斗もお気に召したようだ。
「よかったらレシピもらえるかな。志保子さんも随分と気に入ってるみたいだから」
「うちあんまりこういうの作らないんだもの。美味しいわぁ」
「お口に合ったようでよかったです。後でレシピ送りますね。私も昨年いただいたパエリアのレシピを教えていただきたいです。私が作るのよりずっと美味しかったので……」
修斗の料理も気に入っているのか我が家の味を知りたがる真昼に修斗も快く頷いており、実に和やかな空気が漂っている。
まるで、最初からこうだったように。
「すっかり馴染んでまあ」
ほのかに光るような、柔らかいまろやかな空気が漂っている空間に瞳を細めながら呟く周に、志保子も同意するように相好を崩して「そうよねえ」と笑う。
「もう家族の団欒よねえ」
「こ、光栄です」
「まあ、今更感もあるけどな。実家でもこうだったじゃん」
昨年の夏真昼を連れて実家に帰った訳だが、早々に馴染んで藤宮家の一員の如く溶け込んでいた覚えがある。
その時から既にこうなる未来だったんだろうな、と今振り返れば当たり前のように受け入れられていたのだが、真昼自身には気付ける余裕がなかったのだろう。
「そ、それはそうかもしれませんけど」
「うちでもこうして寛いでくれていいのよ? 今年はこっちに帰って来れそうになくて残念なんだけど」
「忙しいしまとまった空き時間がないからなあ」
「まあだからこそ私達もここに来たってのはあるんだけど。やっぱり顔は合わせておきたいじゃない?」
「そうだね。元気そうでよかったよ」
「元気も元気ですよっと。心配する程じゃない」
両親が周の心配をしてくれているのは気付いているが、今の周は早々揺らぐ事もないし肉体的にも元気そのものだ。
バイトや運動をして体力がついたというのもあり、寧ろ一年生の頃よりも活動的だしそれに対する疲労というものもない。非常に充実した日々を過ごしている、という自負すらある。
やはり肉体的にも精神的にも動くというのは大切なんだな、と当たり前のようで気付きにくい真理を実感している所である。
「周の事だから何かあっても隠すかなと思ってたけど本当に何事もなさそうでよかったというか。順調そうにすら見える」
「俺の信用なさすぎ」
「昔からそうだったじゃない。こけても強がって泣かないで我慢したのに夜にいたーいってぐずぐずしてた時とかあるじゃない?」
「あーあー俺の記憶にございませーん」
本当に至る所から周の黒歴史や失敗談を持ち出す志保子にげんなりしつつ両耳を塞ぐポーズを取ってみせた周に、志保子はおかしそうに眉を下げて笑って。
「真昼ちゃん、この子基本タフだけど繊細さもあるから偶にへしょげてないか見てあげてね?」
「それはもちろん」
カトラリーを置いて背筋を伸ばした綺麗な姿勢で大真面目に頷く真昼に、そこまで自分は信用がないのかと志保子を睨むものの、志保子はからかいの色がない真っ直ぐな眼差しをこちらに差し向けてきた。
「周もよ。真昼ちゃんも我慢しがちなんだからちゃんと見てあげてね。器の大きさの見せ所よ」
「いつでも真昼を見てるのでご心配なく」
周への心配も真昼への心配も等しくある志保子に何だか安心してしまった周は、そんな心配は不要だと言わんばかりに大仰に肩を竦めてみせた。
器の大きさ云々は自分では計れないので真昼の評価に任せるが、真昼が我慢しがちなのは志保子に言われずとも、誰よりも一番周が実感しているし理解している。
だからこそ、話し合う事を忘れないようにしているし、真昼の奥底に、巧妙に隠して埋め込まれた願いを見付けて掬い上げて日の下に晒す事も欠かさない。
「そ、その、周くんはいつも私を見てくださってますし、気にかけてくださってますから……そんな心配はなさらずとも」
「それならいいのよ? 勿論、この子が頼りにならないなら私に頼ってくれてもいいので!」
「頼りにならないとか失敬な」
「女の子同士じゃないと分からないものはありますー」
「女の子、ねぇ」
「何か言いたい事があって?」
「いえなんでも」
もう自称に子をつけていいような年齢ではないのでは、と息子としてはとっくに成人を迎えた女性である母親を見て言いたい事はあるのだが、本人から詰問されるのは勘弁願いたい。
年齢の話は女性にはタブー、という修斗の忠告を思い出したが、やはりそれは理解していても子には突っ込みたい所だったのだ。
「ふ、ふふふ」
周が軽く志保子に押されている所が面白かったのか、真昼は口元を隠しているものの肩を震わせて瞳を細めているので笑っているのは明確だ。
「笑うなよ」
「つい。仲良しで素敵だなって」
「そういう判断になるんだ?」
「勿論。お二人共仲良しですし、志保子さんも周くんに負けず劣らず若々しいなあと。ねえ修斗さん」
「そうだねえ」
「それ年甲斐ないって受け取れるぞ」
「穿って見ているのはそちらですー真昼ちゃんがそんな事言う筈ありませーん。全く、周は真昼ちゃんを見習いなさい」
「母さんも真昼を見習った方がいいと思う。遠慮とか淑やかさとか」
「母親に向かってその口のきき方はどうかと思うけど?」
「すみませーん」
軽率なやり取りを繰り返す周と志保子に真昼はより一層、というかツボに入ったのか上品さをそのままに堪えきれなかった笑いを必死に押し留めるように顔を背けて震えている。
普段こういうやり取りを聞かないだろうから新鮮なのかもしれないが、そんなに笑うものなのか……と、周の胸の中ではほんのりと表面をなぞられるような、奇妙なくすぐったさが居座っていた。
「まっ、生意気に育っちゃって。いいわよ私は可愛い娘を愛でるから」
「真昼、反抗期迎えていいからな」
「そ、そんな事は」
「いいのいいの、べたべたしないで! くらいは言っていい」
「その分俺がするよ……って?」
「勝手にアフレコ付け足すな。まあするけど」
「ほらするんじゃない」
「しない理由がないだろ」
「まぁまぁ、こうなのね真昼ちゃん」
「こうなんですよ志保子さん」
「なんで俺の味方が居ないのかな」
どう考えても、息子より息が合っている。
ならば男同士結託してもいいのでは、と修斗を見るも修斗はにこにこと中立の態勢を崩さないので、つまり周の味方は居ないに等しい。
何故親にも恋人にも裏切られるのか、と嘆いた周に、周以外の三人の笑い声が重なって響いた。
若干のアウェー感否めなかった夕食が終わり、参加したがる真昼を両親に預けておもてなし後の後片付けという中々に気が重い労働を軽いフットワークで終わらせた周は、手を拭き終えてから飲み物をトレイに乗せてリビングに戻った。
こういう時こそ真昼は楽をしてほしいので周が全部担いたいのだが、真昼はやはり気になるようでちらちらとこちらを見ていたので残り物をタッパーに詰めている最中に苦笑いが自然と滲んでしまう程だった。
気にしなくていいのに、という周の意図を酌んでくれたらしい修斗と志保子があれこれ真昼に構ったお陰で意識が逸れたようなのでよかったが、母の日(正確には前日だが)に気遣わせてしまったのは悪い気持ちでもある。
そんな周は、和気藹々とした雰囲気で満たされたリビングに飲み物の差し入れをしつつ真昼の隣に腰を下ろした。
「何盛り上がってたの」
「ありがとうございます、周くん。ええと、その」
「えー聞きたい?」
おもてなし料理という事で少し重めだったのでさっぱりとした麦茶がいいだろう、とテーブルに麦茶で満たされたグラスを配りながら様子を窺うと、にやつきが返ってくる。
「どうせ俺の小さい頃をネタに盛り上がってたんだろ」
「自意識過剰ねえ。そうだけど」
「じゃあ自意識過剰じゃないじゃん、的確の間違いだろ。あと毎回それで話を盛り上げるのは芸がないぞ」
「偉そうに言うわねえ、じゃあ周はどうやって盛り上げるのかしら」
「そうだなあ、母さんの失敗談でも話そうかな。俺の覚えてる限りやらかしはかなりあったぞ。数え切れない程にあると思うけど」
「……人の失敗談で盛り上がるのはよくない事よね」
「どの口が」
先程までの自分を省みてほしい、とこれみよがしにため息をついてから麦茶で唇を湿らせる。
散々周の思い出したくない経験でウケを取っていたのだから、やり返されても不満なんて言わないよな、と視線で責め立てればそっぽを向かれた。
こういう時に逃げるのは卑怯だろう、と思いつつも真昼が多分知りたがったのだろうとも分かるので、視線で咎めておくだけで済ましておく。
「真昼、後で何言ったかは聴取を取ります」
「……へ、変な事は、何も」
「ふーん? まあいいけど」
多分真昼の周くんフォルダなるものが潤ったのだろうな、と簡単に推測出来る表情で目を逸らされたので、ネタを無限に生成してくる志保子にも問い質したい気持ちが生まれたが抑えておき。
そろそろいいだろう、と真昼の腕をつついて促すと、真昼は遅れて気付いたようで慌てて志保子達の方に向き直った。
どうかしたのか、と視線を集めてくる両親に周は小さく笑って、一度立ち上がり自室から紙袋を二つ、持ってくる。
「一日早いんだけど、今の方がいいかなって。それぞれ母の日のプレゼントを用意しておいたからどーぞ」
おもてなしだけでは足りないだろう、という事で、ここは例年通り贈り物を用意しておいた。
幸いと言っていいのか今回は割とすぐに決まって、周が預かって隠しやすい周の部屋に置いておいたのだ。
真昼に一度真昼の分を渡せば、真昼は丁寧に紙袋を受け取った上で、更に丁寧に恭しく志保子に差し出す。
「私からはこちらを。その、普段よく身に着けてらっしゃるので」
志保子が紙袋から中身を取り出せば、透明な袋に入れられてラッピングされた鮮やかな色彩のスカーフがお目見えする。
職業柄故か本人の趣味故か、志保子は着飾る事が好きだし小物をよく集めている。アクセサリーは勿論、バッグや靴、帽子も気分やTPOに合わせて使い分けられるようにしており、スカーフもその収集の一つだった。
「まあ、スカーフね。私集めるの大好きしベルトとか差し色として使ってるから嬉しいわ〜」
「合えばいいのですけど」
「合う合う〜、というか合わなければ合わなければで使い方を工夫するだけよ?」
実際志保子にはパッと見では合わないな、という色も服の形や色、生地感の合わせ方で似合わせて行くのだから、こういう所で職を感じさせる。
そもそも合っていなかろうが真昼の贈り物、の時点でヘビロテ確定なので真昼はその辺り気にしなくてもいい、という気持ちを込めて背中を軽く叩いてやった。
着恥ずかしげに視線をさまよわせている真昼に続き、周もご満悦気味な志保子に水を差す事になるかもと思いながら自分の分を手渡した。
「それか、俺からはこっち。まあ、これそのものは持ってると思うけど、使い分けてもらうという事で」
周が選んだのは、アクセサリー用のトラベルポーチだ。
真昼に贈ったような、家に置く大きなものではなく、数個の装飾品を安全に持ち運ぶためにあるちょっと頑丈な手の平大もの。
特徴としては頑丈さを優先したのでバッグの中で中身の心配は然程要らないだろうな、という事と、シュリンクレザー製なので長く元の色合いや質感を楽しめる、という事だ。
志保子も元々アクセサリー用トラベルポーチくらい持っているのを知っているが、複数持ちする事もあるだろうし、これから身を飾るものが増える予定を知っているので、あって損はないだろう。
まあ修斗がその辺りも全部独り占めすると言うならそれはそれとして、他のものを入れてくれたらいい。
「あら可愛い。真昼ちゃんと選んだの?」
「俺のセンスで悪かったですね」
一応真昼も忙しいし自分で選んでおくか、と志保子の好きな色や質感で選んだのだが、志保子に気に入ってもらえるかは未知数だったのだ。
「ううん、嬉しいわ。後でこっちに入れ替えちゃいましょう」
「別に使えとかは思ってないんで。気に入ったなら、だからな」
「うん、だから使うのよ?」
「……そうかよ」
「そうよ」
胸を張って堂々と答える志保子に、周は微妙に居た堪れなくなって視線を泳がせたのだが、そんな周の心境を察したらしい志保子は軽やかに笑って。
釣られて楽しそうに笑いだした修斗と真昼に、周は精一杯の反撃として恨みがましげな目を向けるのであった。
「うふふ、母の日っていいわね」
今日は二人が泊まりという事で、真昼は周の家への滞在時間はやや短めに切り上げて帰っていった。
志保子としては名残惜しさも隠さない様子で引き留めようとしていたが、流石に修斗も居るので長居はよろしくないという一応の常識的な判断で周が返しておいた。
「まだ母の日じゃないんだけどな」
沢山真昼を可愛がれたし美味しいご飯も食べられて風呂に入ってさっぱりして実にご満悦だと、顔や雰囲気で語りつつリビングに敷いた敷布団の上で笑う志保子に、周は避けたソファに座ったまま突っ込みを入れておいた。
今日母の日本番、くらいな内容てんこ盛りのおもてなしをしたが、本来
母の日は五月の第二日曜日、明日である。
「でも今日が本番みたいなものじゃない? 修斗さんも用事済ませたみたいだし、明日には帰らないといけないから」
「本当にご足労いただきありがとうございます」
「いいのよー寧ろお誘いいただき感謝感激雨あられ? うきうきだったわよ?」
「だろうな」
真昼程心配はしていなかったのだが、本人の口から聞くと尚更安心出来た。
ここまで来る事をなんの負担にも思っていない、労だと思わない、という志保子の態度にひっそりと安堵しながら、まだまだご機嫌は崩れていない志保子を見つめる。
「一応聞くけど、他に何かしてほしい事とかある?」
おもてなしをして、一家団欒を楽しんで、贈り物をした。
それでも、やはり恩は返しきれていない、と思ってしまう。ここに来てくれた事もそうだが、育ててもらった事、沢山愛情を注いでくれた事、周を周として尊重してくれた事、真昼を周の唯一として受け入れてくれた事。
全てを全て口には出せそうにないが、周は両親に感謝していた。
生んでくれて素直にありがとうと思える、そんな幸せな家族に生まれさせてくれて。
全て説明するのはまず無理だし今は恥ずかしさの方が先に立つのでこうして雑に切り出してしまうのだが、志保子はそんな周の葛藤すら見透かしたように軽やかな柔らかい表情でいて。
「んーそうねえ、あなた達二人には元気で居てほしいわね」
「そういう事じゃないんだけど」
「あらそういう事よ? 一番の親孝行って、子供が元気に健やかに育って旅立っていく事だもの。私達に直接何かしてくれなくたって、あなた達があなた達らしく、憂いなく巣立ってくれるだけで十分な恩返しよ」
対価を求めるでもなく、本当に当たり前として、そう笑う志保子に、涙腺が緩みそうになって代わりに周はきゅっと唇を結んだ。
「……そしたら、まだ巣立てないのに恩返しとか出来ないだろ」
「そうねえ、まだまだ子供ですもの。そこは頼ってくれないと」
「じゃあ今の俺達はどうしたらいいんだよ」
「うーん、どうする?」
「どうするって」
ここで答えを与えるでなく自分で考えさせるようにするのは、藤宮家の伝統、というより小さい頃の習慣だった。
それは、周が大きくなっても、変わらない。
「自分でこうしてあげたいって事をしてもいいんじゃないのかしら。そうしたら、多分私も嬉しいわよ」
「多分なんだ」
「そりゃ全肯定はしませんので。嫌なら言うし、再チャレンジしてくださいな」
取り返せる失敗なら幾らでもしていいのよ、とあっけらかんとした様子で断言した志保子に、周は暫く唇をもごつかせてから、捻り出した細やかな恩返しを口にする事にした。
「……じゃあ、肩を揉む」
本当に、しょうもないと分かっているのだ。
まるで子供のお手伝いのような、ちっぽけで細やかな恩返し。恩返しにも満たない、本当に何でもない、ただの労いのそれ。
それでも志保子は、間違っているなんて言わず、寧ろ嬉しそうに破顔した。
「あら、今日は肩叩き券持ってきてないわよ?」
「あれは捨ててほしいんだけど」
背を向けてくれた志保子に周はソファから降りて志保子の後ろに膝を立てるようにして座り、その華奢な肩に手を伸ばした。
昔はあんなにも大きくて広く感じた背中は、今や自分よりもずっと小さくて頼りない。それでも、いつまでも、誰よりも、頼りになる背中なのだとも、理解していた。
「いやよー、大切な思い出ですもの。大事に取っておくに決まってるじゃない」
「勘弁してくれ」
「ふふ、親になったら分かるわよ。残しておきたくなっちゃうの」
「……左様で」
「もーレディに対して力を入れない」
ちょっと力が入ってしまったが、痛みを感じるものでもないらしく、やはりからかうような声が飛んでくる。
随分と小さな肩を壊さないように、それはそれとしてそろそろ破棄してくれと主張も込めてしっかりと、本人は口にはしない疲れを背負った肩を解していると、廊下の方から足音がした。
「おや、親孝行かい? いいなあ」
今日は志保子とは別に風呂に入ってもらっていた修斗も風呂から上がってきたらしく、血色のよい頬を緩めてこちらを微笑ましそうに眺めに来たので、志保子は修斗に手招きして隣に座るように促している。
「修斗さんもしてもらう? ほら周ゴー、修斗さん仕事で肩凝ってるだろうしやっちゃいなさい」
「母の日の名目はどこ行ったんだろうねえ」
「もう親孝行の日でいいんじゃないの? 一足先に父の日も嗜んでおけばいいじゃない」
「そうだね。尽くしてもらおうかなあ」
ここは志保子の言葉に乗ってきて、夫婦揃っていそいそと背中を差し出すのだから、つい声を上げて笑い、昔よりも随分と近くなった背中に向き直る。
「うわかった。父さん整体行きなって」
自身へのメンテナンスを大切にする修斗ですらしっかり凝っているのだから、周が思うよりもずっと色々なものを抱えてきたのだろうし、それを周に感じさせないように背負ってきた。
背中に背負われていた頃を思い出して名状しがたい胸の切なさと熱さに瞳を細め、それから大きく息を吸って背負っているものを少しでも外そうとガチガチに固定された凝りに立ち向かう。
「最近予約取れてなかったからねえ。息子の願いだし行こうかな」
「いや俺の願いじゃなくても行ってこいよ……父の日は整体の予約にした方がいい?」
「周がするのかい?」
「俺が整体必要になるだろそれ」
全身くまなくマッサージとか翌日施術者の周が疲労からの筋肉痛でのたうち回る事になるだろう。
そんな未来を受け入れていいのか、とジト目で睨むも背を向けている修斗は気付かない、というよりは察して敢えてスルーしているようで「親孝行な息子を持っていいねえ」と実にのんびりとしたご様子。
頼ってくれた、甘えてくれた、その喜びを噛み締めながら、それはそれとして無茶振りをするなと周は先程よりも強めに指先に力を込めるのであった。





