後半
真っ暗な動物園の鍵は閉まっていたが、耀狐が手を触れると柵が開いていく。
「神に不可能はないのだー!」
耀狐は、ふざけた言い方をしたが、荒木は「しーっ!」と口を指に立て、おっかなびっくりなかにはいり、キョロキョロと辺りを見回した。
キリンの柵やゾウの柵が目に入った。どこも空っぽだ。たぶん、もう眠っているのだろう。すでに夜九時半を過ぎている。
「現場はどこだ」
「レッサーパンダの檻のまえよ。あたしの目の前で起きたの」
「きみ、神さまなのに殺人を止められなかったの」
「仕方ないわよ、神通力が弱いんですもの」
「……」
レッサーパンダの檻のまえへ行くと、そこに倒れていたのは。
「ひでえな」
荒木は、顔を背けた。腕が引きちぎられ、血だらけになっているのは、絵本のなかの天使とみられる人間だった。愛嬌のある顔は苦痛に歪んでいる。その天使は、悲鳴を上げかけたものの、息を吸うまえに攻撃を受けたらしい。不意打ちされたのだ。
「動物園に来ていた幼児がつくったお話のキャラクターね。話を作るのに慣れていないから、殺人鬼も狙いやすかったのよ」
「目の前で起きたんだろ、犯人の顔を見たか?」
「わかんない。二メートルの狼みたいに毛むくじゃらだったけど、巨大な昆虫みたいにも見えたし……」
「いつごろ起こったんだ」
「ついさっきよ。あなたが話を作ったのと同時ぐらいかしら」
「なんでわかる」
「あたしは神の使いですもの」
いきなりファンタジーが目の前に迫ってくるのを感じて、少し青ざめる荒木。耀狐は丁寧に天使の遺体を抱き上げた。血まみれのぬいぐるみだ。
「喰い残しかしら。じっとここにいたら、かえって危ないかも。またやってきて、残りを食らうかもしれない。さっさとこれに決着をつけましょう」
「そういえばおれ、武器を持ってないけど」
「だいじょうぶよ。あたしが守るわ」
耀狐は、ぶんっと平たい胸を張ってみせる。荒木はうろんげに、
「弱っちい神通力で?」
「神の使いをバカにしないでよ。あんたが真剣に祈れば、力がわいてくるんだから」
「お祈り? そんなもので?」
荒木はすっかりバカにしきっていたが、耀狐は諭すように、
「いったい、いつから素朴な信仰心が非難の的になったのかしらね」
「時代は人工知能だ、お稲荷さんなんて古いぜ」
言い返す荒木。耀狐は、頭を振った。
「お祈りができないのなら、せめて油揚をちょうだい。パワーの源なんだから。五目いなりとか、おでんの巾着とか、焼き油揚とか、料理した油揚がいいわねえ。手作りだとなおパワーが出るわ」
「食いしん坊め」
とりあえず、天使人間の遺体を片付けることにした。ファンタジー世界の住民は、それ自体が想像の産物なので、土葬や火葬などしても意味はないし、そもそも動物園はコンクリートの道路ばかりである。かといって、放置していたらまた殺人鬼がやってくるだろう。殺人鬼のにおいが残っているし、耀狐の抱えている頭からは、血のにおいも誘惑している。へたしたら、自分たちもその殺人鬼にやられるかもしれない。どうしようかと荒木が迷っていると、
「あんたにしかできないことをやってちょうだい」
と、耀狐は、真剣な目で言った。ルビーのような瞳に、きらきらした光が宿っている。殺人鬼は怖いし、天使人間は哀れだけれど、そんな感情には負けないわ、という強さがにじんでいる。
耀狐が、抱いていた天使人間をそっと地面に降ろしている。荒木には、想像の産物を葬る方法はわからない。ただ、日本人には、思い入れのある絵や玩具などを供養する、ある方法が用意されていることを思い出していた。
「お経でもあげろってのか?」
荒木は、鼻を鳴らした。このぬいぐるみのような天使人間に、憐れみを感じたからである。
「お経? なにいってるのよ、話に決着をつけるのよ」
「なんだって?」
荒木は、肝をつぶして声を張り上げた。
「作家志望なら、訓練のひとつとして、途中で終わった話の結末を着ける練習もするべきでしょう。スキルがつくわよ」
「だからって、ほかのヤツの話の結末をつける義理は、おれにはないぞ」
「なに言ってるの。あなたには、才能がある。だからこそ、狙われてるんじゃないの。さっさとこの話の結末を着けて、殺人鬼のパワーの源を削ぐのよ」
「殺人鬼のパワーの源?」
「詳しい話は後にして。あなたには、話にエンドマークをつけられるし、そうすればスキルもつくでしょ。もし、サボったりしたら殺人鬼が現れるのよ」
取り付く島もない。それに、スキルがつくと聞くと、たしかにそうかと思えてくる。
あとで考えると、こんな状況をすなおに受け入れるなんて、酔っていたに違いないと思えるのだが、天使の話なら、きっと天国で音楽を奏でているのだろう。ありがちだなと考えつつ、荒木は、ストーリーに、「レッサーパンダにえさをあげていた天使は、その使命をはたして天国に戻り、歌を歌うのでした」という決着をつけた。
天使人間の遺体は、虹光の昆虫に囲まれて、星の彼方へ消えていった。
「殺人鬼って、どんなヤツなんだろう」
荒木が問いかけると、耀狐は目をぱちくりさせて、
「人間じゃないことは、たしかね」
と言った。荒木はゾッとして身を震わせた。人間すら一撃で喰ってしまうような殺人鬼に、対抗できるのだろうか。相手は人間ではない。あの天使人間の引きちぎられた腕。恐怖にひきつった顔。おれは、そいつに対抗できるのか。
「こっちから追っかけて、アイツの尻尾をつかみましょう」
耀狐は、きっぱりそう言った。
二人が追跡するうちに、動物園の殺人鬼は、人間の皮膚をパッチワークにしたり、手の指を首飾りにしたりして、やりたい放題をしていた。
そのどれもが、話の途中で終わっているストーリーだった。
荒木は、そのたびに、話の結末を考えなければならなくなった。
皮膚がパッチワークになった話には、猟奇殺人事件の真犯人を見つける。
手の指が首飾りになった話には、恨みのこもったドロドロ話。
ストーリーの続きを考えるのは、骨の折れる仕事だったが、お話に夢中になり、続きを楽しみにするあまり、本にのめり込んで現実を忘れるひとがいる。だからこそ、殺人事件が勃発したのだ。途中で投げ出されたキャラクターたちの、うめきと悲しみが殺人鬼を呼び寄せたのだと耀狐から説明されて、荒木は、あることに気づいた。
「すまない」
荒木は、耀狐に深く頭を下げていた。「殺人鬼を追い詰めることは、おれにはできそうにない」
「なによいまさら。臆病風にふかれたわけ?」
耀狐の、落胆したような声に、荒木は手を振って答えた。
「そうじゃないんだ。自分の身勝手さが、今になって身に応えてきてね」
「あんたそれでも作家志望なの?」
耀狐は、突き飛ばすように言った。「夢に向かうだけの才能が、あんたにはあるのよ? これまで結末がなかった小説の、すべてに答えを出したじゃないの!」
「答えを出すだけが、小説じゃない」
荒木がそう反論したとき、体長二メートルはあるタランチュラのような化物が、檻の影から現れて、ふたりのいる動物園の入口に向かってのし歩いているのを見かけた。
「―――殺人鬼だわ! 倒さなきゃ!」
耀狐が、はじかれたように立ち上がった。
荒木は、耀狐の鼻のとんがった横顔を見つめた。倒さなきゃだって? しかしこの殺人鬼は、気まぐれな作家に裏切られた読者の、ウラミツラミがたっぷりこもっているのだ。倒すことができるとも思えない。
「殺人鬼には、悪意はない。かなえられなかった夢を、裏切られた希望を、こういう形でしか表現できない。それが、この化物。あんたは、そう説明したはずだ。それなのに、こいつと戦えというのか」
抗議された耀狐は、真正面からこちらを振り返った。
「だからよ。だからこそ、こいつと戦わなくちゃ。弱い自分を乗り越えるのよ」
「おれにはとうてい無理だ」
荒木は、助けを求めるように辺りを見回した。もちろん、タランチュラに喰われたくはない。しかし、ヤツを倒す気分にはなれない。あれは自分自身なのだ。
どうしたらいいのかわからない。
おろおろしているかれを見守るように、耀狐は目がきらりと光った。
「ひとには決断しなければならないときが来る」
そういうと、彼女はケーン、と鳴いてタランチュラに向かって飛びかかっていった。
荒木は、思わず目を閉じた。
「神さま、助けて」
かれは、生まれて初めて真剣に祈った。
こんな形で、物語を終わらせたくない。
恐ろしい乱闘が続いている。大きな木が倒れるような音がする。そっと目を薄く開けてみると、耀狐がタランチュラを相手に、がっぷり四つに組んでいる。しかし、タランチュラは圧倒的に優勢だ。横綱に対抗する前頭筆頭を思わせる力量の差があった。大きな岩みたいに耀狐に覆い被さっている。
「わしに従え……」
地獄の底から聞こえてくるような声が、タランチュラの方角から聞こえてきた。
「もっとラクに、創作させてやる……」
びくびくしていた荒木は、心臓が胃のところまですとんと落ちてくるような気分になった。話を作るたびに襲ってくるスランプ。ちっとも文字が埋まらない原稿。それが、もっとラクに創作できるようになる? ほんとうだろうか。
「本当だとも……」
心を読んだのか? 驚いて目を見開くと、いつの間にかタランチュラは、耀狐を足元に敷いていた。耀狐は、置物になったみたいに動かない。動けない。
「創作がラクにできるぞ……。たったひとつ、わしに貢ぎ物をささげれば……」
上に乗ったタランチュラをふりほどこうとあがく耀狐。しかし、身体中に蜘蛛の巣がかかっていて、動くに動けない。
「ダメよ! 耳を貸しちゃダメ!」
かすれた声の耀狐。タランチュラは、猫なで声でささやき続けた。
「才能を無駄にするんじゃない。わしに貢ぎ物をするのだ……魂をよこせ……」
「くだらねえ」荒木は、耳を塞ごうとしたが、結局聞くことになった。
「わしのこのありさまを見ろ。わしは、作家志望のおまえの肥やしとなりつづけてきた。もう充分だ。わしはおまえのエネルギーを使って、五分後にはインターネットでおまえの小説を世界にひろめることができる。それからおまえはテレビやラジオに引っ張りだこだ―――
おそるべき小説の魔の力が何年も続き、おまえの名声は全地にあまねき、世界の果てにまで及ぶことだろう。やがておまえは数々の賞をほしいままにする。おまえは一生しあわせになる。もっとも辛辣な親友の中島に、目にものみせてやれるのだ」
「―――嘘よ!」
耀狐は、突然叫んだ。だが、タランチュラが踏みつけたので、むぎゅっと息が詰まった。
邪悪な八つの黒い目が、小さく瞬いているのが見えた。
「かわいそうな荒木よ。耀狐のどれいになりさがりおって。おまえがひとたび魂を差し出せば、こいつになにができようか」
「おれは―――、おれは、魂が存在するかどうかなんてどうでもいい」
荒木は、からからに乾いた声で答えた。
「だけど、ひとつだけわかってることがある」
「なんだ?」
にたり。タランチュラが笑っている気がする。荒木は、ごくりとつばを飲み込んだ。耀狐の目が、異様にかがやいている。そうだ。おれには使命がある。約束したことがあるんだ。
「あんたはできそこないの殺人鬼のくせに、急におれの名声を気にするのはどういうわけだ? 未完の物語にエンドマークをつけることを、なぜじゃまするんだ? いったい、なにを企んでいるんだ?」
言うなり、かれはタランチュラに体当たりした。あっと声をあげて、タランチュラは耀狐から身を離す。かれは、耀狐の蜘蛛の巣をはぎ取った。同時に耀狐は立ち上がり、タランチュラの足に噛みついた。ギャッとタランチュラがさけぶ。耀狐はタランチュラの足を、骨がみえるまで食いついた。
「やめろ、離せ!」
タランチュラは暴れた。
「いまよ! この話の結末をつけなさい!!」
その声に、ゾウの柵のそばに立った荒木は両手を合わせて念じた。「おまえの無念は、かならずこのおれが晴らす! だからおとなしく、物語の世界へ帰ってくれ!」
じゅうっと火が燃え上がった。タランチュラの足は、燃え始めていた。皮膚はめくれ、紙のように焼け焦げた。
「やめろ、やめろぉぉぉぉ!」
荒木は、おののきながら見守っていた。耀狐は、燃えさかるタランチュラを背中の上に持ち上げた。明るい炎と影になった狐、その陰影が、まるでアフリカの野営のようだった。
すさまじい叫び声が、耳をつんざいた。動物園の動物たちが、目を覚まして騒ぎ始める。飼育員がやってくるのも、時間の問題だろう。
「おわった……」
荒木はつぶやいた。絶叫が途絶えた。
―――こうしてタランチュラは、消えていった。
「つまり、こういうことなのよ」
夜が明けてきた動物園から出ると、耀狐は真っ白なしっぽを振りながら説明し始めている。
「物語を作るには、魂にそういう力がないといけないの。一種の魔力っていうのかな。だから作家志望のひとたちが試作した作品にも、ちゃんとその魔力が残ってる。タランチュラは、その力のゴミ捨て場ってところかしら。それが意志をもちはじめ、あなたの魂を奪ってからだを乗っ取り、小説を使ってこの世界を闇に閉ざそうとしていた」
「―――恐ろしい話だな」
「コツコツと積み重ね、努力する事ができないひと、目標に向かって誠実に挑戦し、持続する意志を持たないひと、そしてその成果を、出す事が出来ないひと。そんなひとたちが、あのタランチュラを生み出したのよ。あなたはどんな作家になりたいの?」
ベテラン作家のような耀狐の台詞を聞いて、荒木は、ものが言えなかった。涙が出てきて、作家になりたいというのぞみをすっかりあきらめたからだった。ところで耀狐はまた口を開いた。力づけるようにして、こう言ったのである。
「あきらめることないわ、荒木くん。タランチュラは、あなたが決着をつけたのよ。たくさんの作品に結末をつけて、スキルをつけたあなたには、りっぱな作家になるよろこびが待ってる」
「でも、タランチュラは? すっかり消えてしまったのか?」
耀狐は、頭を振った。
「作家志望のひとたちが、半端な作品を書き続ける限り、また生まれるでしょうね。でも、あなたがそれに結末を付ける必要は、もうないの。その責任は、じゅうぶん果たしたものね。だからあなたはきっと、長い間読み継がれる、そんな作家になれるわ」
信じられない思いで荒木は、太陽の光が差してきた耀狐を見つめた。耀狐は、自信たっぷりである。
「さあ、帰りましょう。あたしのお話に、結末を付けるのよ」
きらきらと、太陽の光に照らされて、耀狐がきらめいている。
「決着をつけるって、おまえ、ほとんど役に立ってなかったじゃないか。いったい、なにがしたかったんだ?」
荒木が言うと、耀狐は微笑して言った。
「わかんない」
「ダメ狐め」
耀狐は山で幸せにすごし、今ではりっぱな神社も建った、と話の結末を付けた作品は本になった。中島は、まっさきに売り出された本を買ってきて、その感想を言いたがるのだった。
「おまえの小説は、いつもぶっとんでるな」
中島は、本にサインを求めながら、口癖のようにこう言った。
「悪魔だの神だの神通力だの気軽に出てくる。そんな絵空事で暮らしていけるんだから、おまえの商売は気楽なものだな」
一流でなくても、荒木にはたくさんのファンがいる。読者のためにがんばろうと、今日も荒木は原稿に文字を埋めつづけている。