第89話 幾人もの救世主
雨が降っていた。バチバチと大きな音を立てた雨粒が窓を叩く。
私の心情を代弁するかのような大きな雷が鳴り響き、目の前の男の雰囲気を一層不気味なものにしていた。
「なんで……なんでアンタがここに……」
「ケケケ……。めかし込んじゃってよぉ。お前はそんな女じゃねぇだろうが」
「なんでここにいるのかって聞いてるのよ!」
最悪だ。よりによってコイツと再会する事になるなんて。
しかもこんなタイミングで。
「頑張って働いてるらしいじゃねぇか。地元から逃げ出して新たな人生再スタートってか? 羨ましいねぇ」
ヘラヘラとした嗤いを浮かべる瑛斗はこちらの質問を無視して私の顔をのぞき込んでくる。
嫌な汗が流れた。もう二度と会うことはないと思っていたのに。
「昼間はスーパーで夜は居酒屋かよ。お前そんなに働き者だったのかぁ?」
血の気が急速に引いていくのが分かる。
立ち眩みを起こしそうになって壁に手を付き、戦慄する目で瑛斗を見つめる。
「な、なんでそんな事知ってるのよ」
私の状況をあまりにも詳しく知りすぎている瑛斗に恐怖を覚える。
「2日くらい前にこの町についてよぉ。泊まるところ探してたら偶然お前が居酒屋で働いてる所を見つけたんだよ」
「まさか……つけてたの?」
「まあそんなことはいいじゃねぇか。運命的だろ。こんな遠く離れた田舎の町で再会するなんてよぉ。ここ2日ばかり風呂に入ってなくてな。シャワー貸してくれよ」
「図々しいこと言わないでよ。これから出かけるの。あんたなんか家に入れるわけないでしょ。帰って!」
「じゃあ出かけてきていいぜ。俺はのんびりさせてもらうからよ」
何を言っているんだコイツは……?
瑛斗は私の意見なんかまるでどうでもいいと言わんばかりに玄関からズカズカと入りこんでくる。
「ちょっとっ。勝手に入らないでよ。帰って!」
「いいじゃねぇか。俺達他人じゃねぇだろ」
「もう他人だよっ。帰れよ! 今更お前と話すことなんかねぇだろ」
「ギャハハハ!……いいねぇ。調子が戻ってきたじゃねぇか。清楚ぶっててもお前の本性はそっちだよ。性悪で口の悪いヤリマン女だろうが」
クラクラと目眩がして倒れそうになる。
やっと……やっと本当の自分を取り戻してやり直しができると思ってたのに。
怒りのあまり口が悪くなり、思わず噤む。
「別に帰ってもいいけどよ。明日からどうなるだろうなぁ」
「な、何を言ってるの?」
「いい人そうじゃねぇか、あの居酒屋のジジイとババア。でもお前の本性知ったらどんなツラするだろうなぁ」
「やめてよ……関係無い人を巻き込まないで!」
「それになんだよその清楚系みたいな格好。まるで好きな男とデートにでも行くみたいだぜ。そんな乙女みたいなツラ初めてみたぜ。高見沢の時だってそんな顔はしてなかった」
心臓が冷たくなっていくのが分かる。血管が収縮して気絶しそうな不快感が全身を支配した。
「なあデートに着いていってもいいか? お前の新しい彼氏紹介してくれよ」
ニヤニヤと嫌らしい表情で舐め回すように見られ、不快感が募る。
副店長と会わせるなんて絶対に駄目だ。こんな奴と関わってるなんて知られたくない。
「やめてよ……。そんなことしないで」
「イヤだったらここに匿って……置いてくれよ」
今……匿ってって言った? まさかこいつ……。
「ねえあんた……まさか警察から逃げてるなんてことないわよね?」
「そんなことあるわけねぇだろ。言葉の綾って奴だよ。ちょっと親父と折り合いが悪くてよぉ……」
ニヤニヤと信用ならない瑛斗のムカつく顔に、嫌な汗が背中を伝っていくのが分かった。
私はスマホを取り出して副店長へメールを送る。
――【ごめんなさい。急用ができていけなくなりました。埋め合わせは必ずします】
メールを打ち終わって絶望的な気分になる。
だけどコイツを放置する訳にはいかない。
居酒屋の大将や女将さんに危害を加えたりしたら、申し訳が立たないどころじゃない。
それだけじゃない。こいつは私がスーパーで働いていることも知っている。
優しいパートさんや、副店長に危害を加える所を想像して、震えが止まらなかった。
目を離したら躊躇なく誰かに危害を加えるだろう。こいつの頭のネジは前よりずっと飛んでいる気がする。
「何が望みなのよ……」
「とりあえず腹が減ったからよぉ。なんか食わせてくれよ。ここ1ヶ月くらいカップ麺とコンビニ弁当ばっかりだったからな」
「……分かったわよ」
「んじゃぁ、メシ作ってる間に風呂借りるわ。一緒に入るか?」
「さっさと行けよ。残飯食わせるぞ」
「おー、怖い怖い。あ、そうそう。賢いお前なら妙な真似したら……分かるよね?」
「……ッ」
血管が切れそうだった。
諦めにも似た脱力感に苛まれ、重い足取りでキッチンに向かう。
夕べもらった新作レシピのサンプルがタッパーに入っている。
フライパンに移してそれを温め、パックご飯をレンジで温める。
こんなに楽しくない料理は生まれて初めてだった。
気が滅入る……。
10分ほどで出てきた瑛斗は完全にここに居座る気満々でくつろぎ始め、殺意が湧いてくる。
「食べたら出て行ってよ」
「そう連れないこと言うなよ。数ヶ月前まで愛し合った仲だろ」
その言葉に背骨がぞわぞわと冷たい怖気に襲われた。
「やめてよ。あんたとはもうそう言うんじゃないでしょ」
「おお、うめえな。お前料理できたんだな。これから毎日手料理ってか?」
「いつまでいる気なのよ」
「だからツレねぇこと言うなって」
せっかくの料理をムシャムシャと品のない音を立てて食べる瑛斗にイライラが募った。
完全に居座る気だ。
(どうしよう……このままじゃ新しい生活がめちゃくちゃにされる)
この寄生虫をなんとか排除しないと、全部奪い尽くすまでいなくならない気がする。
誰か……誰か助けて……。
「はぁ……久しぶりに腹にたまるもの食えたぜ。ごっつぉさん」
「それはどうも……」
「へへ……」
「なによ……」
ご飯を食べ終わった瑛斗はニヤニヤと意味深な嗤いを浮かべて舐め回すような視線を向けてくる。
何故だか猛烈に嫌な予感がした。
(そうだ……瑛斗は食べ終わるといつも……)
「凪沙~。よく見たらお前、そそる格好してるな」
ぞわっと背筋が凍る。視線が胸元とスカートを往復するのが分かり、嫌な予感が走った。
「腹が膨れたらムラムラしてきたぜ。久しぶりに一発愛し合おうじゃねぇか」
「ふ、ふざけんなっ! 今更お前とヤルなんて冗談じゃない!」
「いいじゃねぇか。お前の身体は隅々まで知り尽くしてるんだぜ。今更なにを躊躇するってんだよ」
ジリジリと迫ってくる瑛斗のキモいニヤけ面に怖気が強くなる。
後ずさりをする私に素早く覆い被さり、私は畳の上に押し倒された。
「いやっ、いやぁあっ! やめてっ! 触らないでっ!」
「ギャハハハ! なに乙女みたいな声出してんだよ。可愛いじゃねぇか! お前いつからそんな弱々しくなったんだよ!」
どれだけ抵抗しても男の瑛斗に力では敵わない。
必死に抗おうとしても、両手を押さえ込まれて身動きができなくなってしまう。
「お前好きな男でもできたんだろ。そんな年頃の女みたいに可愛い声出しちゃって、よぉ!」
「きゃああっ」
力任せに衣服を引きちぎられ、買ったばかりのお洒落なブラウスのボタンが弾け飛ぶ。
「いやっ、いやあああっ! やめてっ、いや、お願いやめてぇ……やだ……やだぁ……」
「大人しくしろよ。居酒屋の二人が酷い目に遭って欲しくないだろ。お前の彼氏も今から呼び出してみるか?」
「ッ……」
そう言われて身が固くなる。今のこいつは前よりずっとイカれてる。
私が逆らったら本当にやりかねなかった。
全身の……力を抜く。顔を逸らして流れ落ちる涙が畳に滴った。
「おっ……諦めがついたか?」
「早く……終わらせて」
「そう言うなよ。これから長い付き合いなんだ。じっくり楽しもうぜ。また俺のテクニックでよがらせてやるよ。ギャハハハ!」
もう全てが真っ暗だった。身体中から生きる気力が抜けていく。
きっとコイツは私をしゃぶり尽くすまで手放さない。
全部、奪われる……。
涙が止まらなかった……。
激しい雨音が窓を叩く。嵐のような轟音が耳をつんざいた。
(ああ、そうか……そうだよね。いくら心を入れ替えてやり直すっていっても、まだたった3ヶ月だもんね……。もっともっと苦しまないと、神様は許してくれないんだ……これが、報いなんだ)
悠真と付き合う前から、私は性悪だった。色んな人に迷惑をかけてきた。
だから、まだまだ終わらせないって、神様が怒ってるんだ。
引きちぎられたカーディガンと薄手のブラウスを開かれ、ブラジャーの上から胸を掴まれた。
心臓は、もう冷え切っていた。心が冷たくなっていくのが分かる。
「へっ。なんだよ。やっぱり勝負下着じゃねぇか。清楚なブラジャー付けやがってよぉ……今度の男は高見沢みたいにウブな童貞か?」
「……」
勝負下着……そんなつもりはない。
胡桃ちゃんが選んでくれた清楚なデザインは、今の私の生き方を肯定してくれているみたいで嬉しかったから……。
だけど……。
(もう……どうでもいい)
きっと浮かれていた私に天罰が下ったんだ。
犯されるのがこんなに辛いなんて知らなかった。
いや、知っていた筈なんだ。
数年前、私を犯したあの大学生達と同じように、瑛斗は下衆な嗤いを上げながら下着を引きちぎろうと力を込める。
私は、弱くなってしまった。
でも、もういい。周りの人が傷つくよりはずっとよかった。
大切な人達。優しくて、明るくて、温かくて……。
汚れきった自分にはもったいない、本当にいい人達だった。
あの人達がこいつの食い物にされるより、自分が傷ついた方がまだ耐えられる。
(私、いつの間にか自分より大切なものができてたんだ)
こんなところで自分の変化を自覚するなんて、皮肉な話だ。
頭の中に大好きな人達が思い浮かぶ。まるで走馬灯のようにパチパチと場面が切り替わり、これまでの3ヶ月がフラッシュバックした。
そして最後に、【彼】の顔が浮かぶ。
(やっぱり私には、過ぎた幸せだったんだ……)
私は全身の力を抜いて、絶望を受け入れ――――――
違う……。
違うッ、違う違うッ違うッ!!
「いやっ!!」
「ぐっ!?」
こんなことで絶望してる場合じゃない。
私は瑛斗を渾身の力で払いのける。
そうだ。こんな奴に人生を好きにされてどうするんだ。
私は悠真から何を学んだ?
新しい土地で、全てをリセットして、何を掴もうとした?
全ての罪を償って、人生をやり直すんじゃなかったのか。
諦めてどうするんだ。
これからの長い年月、自分の犯してきた愚かな罪を清算するんだ。
例えどれだけ時間が掛かっても、全ての罪を清算するまで。
例えこれから先の人生が全て償いになったとしても……、もう後悔しないために。
諦めて絶望に身を委ねたら、それすらできなくなる。
「てめぇ……。良い度胸してるじゃねぇか」
「……」
私は瑛斗を哀れみに満ちた気持ちで見つめ返す。
そんな感性など持ち合わせていない瑛斗は、私の意図が伝わらず怒りに満ちた表情で睨み付けてきた。
「は? なんだそりゃ」
私は自ら衣服を脱ぎ去り、ブラジャーも取り払う。
そして床に大の字になって寝転がり、そっと目を閉じた。
「おいおいおい。そりゃあれか? もう諦めましたってか?」
「違うわ。どれだけ心を潰されても、あんたには絶対に屈しない」
「はあ?」
「体は好きにしなさい。でも、私は這い上がると決めたんだ。いつまでも同じ所でくすぶって、ガキみたいに暴れ散らかすあんたみたいにはならないわ」
「なんだよそれ……俺がガキだ?」
「そうよ。自分のやったことの責任も取れないクソガキ。でも、たまたま逮捕されなかっただけで、それは私も同じ。だから、私はどれだけ理不尽に踏みにじられても、二度と腐って人生に絶望したりしない。全部の責任を果たすまで、決して諦めない」
「は? は? は? は? は? なんだそりゃ? バッカじゃねぇの。ようするにレイプOKってことね。同意の上でセックスするってことだろ」
「……」
私はそれに答えなかった。
どうせ汚れきった体だ。今更、汚泥を上塗りするくらいどうということはない。
何度でも洗い流せば良い。そのたびに這い上がってやる。
私は、もう絶望しない。
「ああ、そうかよ。そんじゃ好きにさせてもらうわ! 久しぶりにご馳走になりま――がはっ!?」
「え?」
ギュッと目を閉じていると、ふとのし掛かられていた体重が離れた。
「なんだテメェ、ぐわっ」
目を開けると瑛斗が誰かに羽交い締めにされていた。
よく見ると瑛斗は複数の人間に押さえつけられ、私から引き剥がされる。
「凪沙さん! ご無事ですか!」
「ふ、副店長」
瑛斗を押さえつけていたのは、待ちわびてやまない人だった。
1番助けに来て欲しい人が、そこにいた。
「すみません、どうしても気になって様子を見に来ました。彼らのおかげです」
「え?」
よく見ると瑛斗を押さえつけている男性がもう1人。
それは、私のよく知ってる人物だった。
「くそっ、離せっ!」
「大人しくしろよ犯罪者。もうすぐ警察がくるからな。お前の逃亡劇もこれで終わりだ」
「ゆ、悠真……!?」
「やあ、久しぶり」
瑛斗を押さえつけていたもう1人の男性は、以前よりも更に逞しくなった悠真だった……。
「浮子さん、大丈夫ですか!」
胡桃ちゃんが駆け寄ってくる。
その瞬間、私は助かったんだと自覚した。
「く、胡桃ちゃん……」
「間に合ってよかったです。もう大丈夫です。遅くなってすみません」
「た、助かった……」
私を救い出してくれた幾人もの救世主。
それを象徴するかのように、胡桃ちゃんが私を抱きしめてくれた。




