第83話 優しさと戸惑い
【凪沙 視点】
次の日、副店長に送り届けてもらった後から、急速に体調が悪くなったのを自覚し、私はそのまま寝込んでしまった。
「ゲホッ……ゲホッ……あ~、ヤバい……本格的に風邪だ……」
今日は日曜日。幸いにして全てのバイトがお休みで、家から出なくても済みそうなのが良かった。
でも、頼る人のいない一人暮らしでは、身の回りのことは自分でするしかない。
初めての一人暮らしで戸惑うことが多い中、ようやく慣れてきた所だったのに……。
「今日が休みでよかった……ゲホッっ! ゲホッゲホッ……」
ヤバい…頭が割れそうに痛くてぼんやりする。
視界もぼやけて立ち上がる気力もない。
食欲もないから食事は作らなくてもいいが、せめて水分補給はしておきたい。
「うう……冷蔵庫が遠い……」
ほんの数メートルの冷蔵庫すら山の頂上のように遠く感じる。
なんとか布団から這い出てシンク台まで辿り着き、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
「ふぅ……。辛いなぁ……一人は、辛い……ゲホッ、ゲホッ……」
体が弱り、張り詰めていた気持ちが緩んでしまう。
頭が痛い……寂しい……助けて欲しい。
自分で選んだ道なのに、くじけそうになる自分が嫌いだった。
「でも、なんとか今日中に治さないと……ゲホッ……お休みなんて取りたくない」
とにかく休もう……。今日中になんとか熱を下げて明日の仕事に備えないと……。
何もする体力も気力もなく、その日1日を麦茶と塩だけで過ごすしかなかった。
何もできない空白の時間は、地獄のように長く感じた……。
◇◇◇
「ゲホッ……ゲホッ……あ……が……げほっ」
次の日。
仕事の時間が迫る中で目覚めた私は、身体中を支配する倦怠感に絶望的な気持ちになる。
喉が痛い。扁桃腺が腫れて声が出せなかった。
もう気合いでなんとかなる範疇を超えている。
不本意だけどお休みをもらうしかなさそうだ。
私はテーブルに置いてあるスマホまで這っていき、もうろうとする意識の中でお店に電話した。
――『は、はい、もしもし』
「も゛……すみ……あが……」
――『え……浮島さん? どうされました?』
電話に出たのは副店長だった。
名乗る前に私だと理解している事に気がつき、不思議に思った。
どうやら無意識のうちにお店の代表番号ではなく、副店長の個人番号にかけてしまっていたらしい。
彼の声を聞いて、何故だか染みるような安心感を覚えてしまう。
私は腫れてロクに出せない声を絞りながら、なんとか体調不良であることを伝えた。
――『大丈夫なんですかっ? すぐに誰かを向かわせますから。安静にしててくださいね!』
「あ゛……ぞ、おきづ……」
お気遣いなく、と言おうとしたところで電話は切れていた。
声を出すのも辛い。再び電話を掛ける気力も湧かなかった。
私は冷蔵庫まで這っていき、麦茶と塩を口に含んで一気に飲み干す。
「はぁ……はぁ……」
意識がもうろうとしてしまい、体から力が抜けてしまう。
立ち上がる気力も湧かず、シンク台のところで座り込みながらぼんやりとするしかなかった。
「弱い……なぁ……私……ゲホッ」
風邪を引いたくらいでこんなに気持ちが弱ってしまうなんて……。
「はぁ……はぁ……布団……も゛ど……ゲホッ」
布団まで戻らないと……。汗で体がベタベタする……。
せめてパジャマだけでも着替えたい……。
替えのシャツが入っているアクリルボックスを開き、清潔なTシャツと替えのパジャマを掴んで引きずり出した。
「着替え……ない……と」
(気持ち悪い……下着も替えたい)
汗まみれのパジャマを脱ぎ、下着も取り払って替えのシャツを掴む。
(あ……ヤバい)
気持ち悪くて着替えたい……そう思って床に手を付いたところで脱力してしまう。
そのまま私は意識を失った。
……
……
……
温かい……。
誰かに包まれているような気がする。
意識がフワフワと浮き沈みしている感覚に、心地良い気持ちが溢れて安らいだ。
私……どうしてたんだっけ?
「ん……あ、……れ?」
「あ、目が覚めましたか。良かった……」
「えっ……あ、ふ、ぐ……で……ゲホッ、ゲホッ」
副店長、と声を出そうとして喉が詰まってしまう。
目が覚めると目の前に副店長がいた。
「わだ……じ……ゲホッ」
「あ、無理して喋らないでください。いま看護師さんを呼びますから」
「え?」
看護師、という言葉を聞いて、ようやく自分が寝ている柔らかい感触に違和感を覚える。
ぼんやりとする意識を振り絞って周りを見渡すと、自分の部屋ではなかった事に気がついた。
「ここは病院です。勝手ながらマスターキーで入らせてもらいました。浮島さんが倒れていたので、救急車で運んでもらったんです」
そうか……あそこは会社持ちのアパートだから、マスターキーを副店長が持っていても不思議じゃない。
「あ゛……ぞ、ん」
「大丈夫です。手続きは全て僕の方で済ませてあります。入院費も会社から補填されますからお金の心配もしないでください」
副店長は私の言葉を全て先回りするように情報を与えてくれる。
「お店は3日ほど有給にしてあります。何も気にせずゆっくり休んでください。居酒屋の方にもボクから連絡を入れてありますので」
何から何まで全部やってくれている。
言葉にならない感謝が涙腺を緩くした。
「あ゛……う゛……」
お礼と謝罪を言いたいのに扁桃腺が腫れて、まったく声が出なかった。
まだ頭が回らない。嗚咽で喉が詰まって息が苦しかった。
やがてナースコールで呼ばれた看護師さんにお世話をしてもらうため、副店長は病室を出て行った。
(私……何やってるんだろう……)
結局迷惑を掛けてしまった。
だけど……なんだろう。
胸がドキドキする……。副店長、いつも通り穏やかで冷静だったけど、よく見ると泣きはらしたような跡があった。
「浮島さん、点滴の交換とお着替えしますねー。汗も拭いちゃいましょう」
「あ゛……は、い……」
「扁桃腺が腫れてますからね。無理して喋らなくて大丈夫ですよ」
こくりと首だけ動かしてコミュニケーションを取る。
看護師さんは柔和な中年女性で、ここに来るまでの経緯を丁寧に教えてくれた。
「さっきの男の人。救急車で浮島さんに付きっきりで寄り添ってたそうですよ。ここに着いてからも目が覚めるまでずっと手を握ってたみたいで。良い彼氏さんを持ちましたね」
「がっ……(ブンブン)、ゲホッゲホッ」
彼氏じゃないです! と言いたかったが、喉が詰まって咳き込んでしまう。
首をブンブンと横に振るだけで精一杯だった。
「あらあらごめんなさい。でも、女の子の為にあそこまで必死になれる人だから、きっとあなたのことがとても大切なんだわ。いい人だから捕まえておきなさい」
私は曖昧に笑うしかなかった。
「ああいう人は貴重よ。部屋で倒れていたあなたを見つけて、すぐに冷静な判断で処置を施したらしいわ」
そうなんだ……。副店長、そこまでしてくれたんだ。
あれ……そういえば……。
温かい気持ちに包まれて、考える余裕が出てきた。
それにつれて、徐々に記憶が戻り始める。
「!!?」
そこで私は重大な事実に気がついた。
「あ゛……わだ……はだ……か」
「あ、そうそう。一緒に付き添ってた佐藤さんって女性が着替えさせてくれたから、裸は一瞬しか見られてないわよ♪」
そうだった。私、着替えている途中で気絶して……。
「~~~~~~~~~~~ッ!!」
声にならない叫びが喉の奥で詰まる。
副店長にみっともない所を発見されたかと思うと、かつて経験したことのない羞恥心が全身を熱くしてしまう。
私は風邪の熱とは別種の熱さに体を火照らせながら、戻ってきた副店長の顔を見ることができなかった。




