第76話 全ての崩壊
高見沢グループの本社ビル、最上階の会議室は、朝の陽射しが差し込む中でも異様な緊張に満ちていた。
父さんはデスクに両手をつき、複数のモニターを睨みつけながら低い声で言った。
「証取委が正式に調査を開始した。
金融庁も動き出した。
黒峰の粉飾は、もう隠しきれなくなった」
俺は父さんの横に立ち、画面に映る内部資料を食い入るように見つめた。
数字の羅列が、黒峰グループの命運を握っているように感じられた。
父さんは続けた。
「同時に、経済紙の記者にオフ・レコードで情報を流した。
明日には、黒峰グループの大規模粉飾疑惑として一面に載る可能性が高い」
その言葉が終わらないうちに、母さんが急ぎ足で会議室に入ってきた。
「取引銀行から緊急連絡が入ったわ。
黒峰の主要融資先が、一括返済を検討し始めた。
うちの情報提供が効いている」
俺の背筋に冷たいものが走った。
父さんはモニターの一つを指差し、声を低くした。
「株価も今朝から急落している。
取引先が次々と契約の見直しを申し出ている。
資金繰りが一気に悪化する。
あと数日で、黒峰は自力では立て直せなくなる」
会議室の空気が、ますます重く張りつめた。
俺は拳を強く握り、静かに言った。
「つまり……黒峰はもう、逃げられないってことか」
父さんは厳しい表情で頷いた。
「そうだ。
黒峰は今、自分たちの首が絞まることで精一杯だ。
胡桃ちゃんを拉致する余裕など、もうない」
俺は窓の外の街並みを見ながら、胸の奥で激しい感情が渦巻くのを感じた。
現実の企業は、直接相手を攻撃するのではなく、公的機関と市場に情報を流して「自然に崩壊させる」のが最も効果的だ。
父さんはまさにその方法を取っていた。
それでも、俺の心はまだ完全に落ち着かなかった。
胡桃ちゃんは今、白峰家で守られている。しかし、黒峰が完全に潰れるまで、油断はできない。
俺はスマホを取り出し、三姉妹に短いメッセージを送った。
【黒峰が崩れ始めた。でも、まだ気を緩めないで】
画面を閉じながら、俺は静かに息を吐いた。
黒峰グループの瓦解は、もう止まらない。
◇◇◇
黒峰邸の地下会議室は、酒の臭いと汗の匂いが混じり、息苦しいほどに淀んでいた。
蓮太郎は長テーブルの上座に座り、血走った目で部下たちを睨みつけていた。
シャツのボタンはいくつか外れ、腹の肉がはみ出し、脂ぎった顔が不快に光っている。
「くそ! どうなってやがる!
桃峰は連絡してこないし、株価は暴落している!
このままでは我が社は破滅だっ!
お前らっ、なんとかしろ!」
彼はテーブルを叩き、唾を飛ばしながら怒鳴り散らした。
顔は真っ赤に上気し、息が荒く、まるで駄々をこねる子供のように見えた。
額には汗がびっしょり浮かび、首の肉が震えている。
部下の一人が、血の跡が残る額を押さえながら、冷ややかに言った。
「残念ですが、もうあなたに従う理由はありません」
蓮太郎の目がさらに見開かれた。
「な……何だと!?」
その部下は、酒瓶が直撃した傷口からまだ血をにじませながらも、表情一つ変えずに続けた。
「もはや黒峰グループの瓦解は止まりません。
となれば、我々を雇い続ける事も不可能でしょう。
つまり契約終了です。
金の切れ目が縁の切れ目ですね」
蓮太郎は立ち上がり、グラスを乱暴に投げつけたが、部下は軽く身をかわした。
グラスは壁に当たって派手に割れ、酒が飛び散った。
「てめえら……裏切る気か!?
俺が今まで食わせてやったんだぞ!」
部下は冷たい目で蓮太郎を見下ろし、静かに言った。
「あなたが食わせてくれたのは、粉飾で膨らんだ偽りの金です。
もう、その金も尽きかけています。
我々はこれ以上、沈む船に留まるつもりはありません」
他の部下たちも、次々と立ち上がり、部屋から出て行こうとした。
蓮太郎は慌ててテーブルを叩き、声を張り上げた。
「待て! 待てよ!
お前らがいなくなったら、誰がこの会社を……!」
「ああそうそう。この間投げつけてくれたこの傷、しっかり慰謝料を請求させて頂きますので」
部屋に残された蓮太郎は、荒い息を吐きながら椅子に崩れ落ちた。
脂ぎった顔が、初めて見るような青ざめ方をしていた。
彼は震える手でグラスを掴み、残った酒を一気に飲み干した。
「くそ……くそっ……!
全部……全部、俺のものだったのに……」
地下室に、蓮太郎の独り言だけが虚しく響いていた。
黒峰グループの瓦解は、もう誰にも止められなかった。
◇◇◇
桃峰家の応接室は、いつになく暗く冷えていた。
胡桃の父は大きなソファに深く沈み込み、震える手でグラスを握っていた。
中身はもうほとんど残っていない。
彼はグラスをテーブルに置き、虚ろな目で壁を見つめた。
胡桃がいなくなった。
あの日、彼女が「もうこの家にはいられない」と言い放って出て行った瞬間から、何もかもが狂い始めた。
黒峰グループの株価は暴落し、主要取引先は次々と契約を打ち切り、銀行からは融資の一括返済を迫られている。
粉飾決算の疑惑が表面化し、証取委と金融庁の調査が入ったという報告も届いていた。
「すべて……終わったな」
彼は独り言のように呟き、苦々しく笑った。
しかし、次の瞬間、その笑いは歪んだ叫びに変わった。
「認められない……!
こんな終わり方など、絶対に認められない!
私は桃峰の社長だ!
この会社をここまで大きくしたのは私だぞ!
娘一人のために、すべてを失うなど……ふざけるな!」
胡桃の父はグラスを床に叩きつけ、ガラスが派手に割れる音を響かせた。
彼は立ち上がり、部屋の中を歩き回りながら、みっともなく声を張り上げた。
「胡桃!
お前がいなくなってから、何もかもが駄目になった!
お前は私の娘だろう!
会社を守るために、少し我慢すればいいだけだったのに……なぜ、なぜ私を裏切るんだ!
私のプライドを……私の地位を……全部、台無しにしやがって!」
彼の声は次第に嗄れ、涙と唾が混じり合った。
顔は真っ赤に上気し、首の血管が浮き出ていた。
かつては冷静で威厳のある経営者だった男の、醜く崩れ落ちる姿だった。
「認められない……絶対に認められない……!
私はまだ終わっていない……この会社は私のものだ……!」
胡桃の父はソファに崩れ落ち、頭を抱えて震えた。
娘を道具としてしか見ていなかった自分。
会社の存続を盾に、彼女の人生を踏みにじろうとした自分。
今になって、その愚かさが痛いほどに分かる。
しかし、もう遅い。
応接室の時計が、静かに時を刻む音だけが響いていた。
胡桃の父はグラスを握りしめたまま、ゆっくりと目を閉じた。
これで、すべてが終わる。
彼の顔には、深い絶望と、崩壊したプライドの残骸だけが刻まれていた。
◇◇◇
そして数日後、運命の時はやってきた。
高見沢グループの本社ビル、最上階の会議室。
再びここに集まったとき、父さんの表情は先日とは明らかに違っていた。
確信と静かな勝利感が、厳しい顔立ちに浮かんでいた。
父さんはデスクに片手をついたまま、モニターを振り返りもせずに言った。
「黒峰の粉飾決算が正式に金融商品取引法違反として立件された。
蓮太郎を含む経営陣数名に、きょう逮捕状が出た」
俺は息を飲んだ。
父さんは淡々と続けた。
「同時に、桃峰家も長年にわたる粉飾が発覚した。
胡桃ちゃんの父親は、黒峰との取引を隠蔽するために架空売上を計上していた。
彼にも逮捕状が出ている」
俺の胸に、複雑な感情が一気に押し寄せた。
胡桃ちゃんの父親——彼女を道具のように扱い、政略結婚に突き進もうとした男。
その男が、今、自分が築いたすべてを失おうとしている。
父さんは静かに言った。
「桃峰グループは事実上、破綻した。
黒峰も同様だ。
両社とも、粉飾の規模が大きく、銀行が一斉に融資を引き上げた。
もう、どちらも立ち直ることはできない」
俺は黙って頷いた。
前回この部屋で聞いた「連鎖」は、予想以上に速く、容赦なく現実のものとなっていた。
父さんは少し声を落として言った。
「胡桃ちゃんには……まだ伝えてないのか?」
「ええ。本人から『もう父親のことは考えたくない』と言われているので……」
俺は言葉を区切り、窓の外を見つめた。
胡桃ちゃんは今、白峰家で三姉妹と共に静かに過ごしている。
彼女は父親との決別を自ら選び、ようやく心の重荷を下ろし始めていた。
そんな彼女に、父親の逮捕というニュースをどう伝えるべきか。
父さんは俺の肩に軽く手を置き、静かに言った。
「タイミングは、お前が決めてやれ。
ただ、事実を知る権利は彼女にもある」
俺は小さく頷いた。
会議室を出た後、俺は白峰家に向かう車の中で、胡桃ちゃんの顔を思い浮かべた。




