第75話 決別
俺は白峰家の二階で、開いた窓から入る風を頰に受けながら立っていた。
もうすぐ夏が近い。
昼間は汗ばむ陽射しが降り注ぎ、夜になっても空気が湿り気を帯びている。そんな季節の変わり目が、今年は妙に早く感じられた。
俺はスマホを握ったまま、父さんから届いた最新のメッセージをもう一度読み返した。
黒峰グループの資金の動きが、さらに怪しくなっている。海外事業の損失を隠すための架空取引が、かなりの規模に膨らんでいるらしい。父さんは「あと少しで決定的な証拠が掴める」と書いていたが、時間はあまり残されていない。
俺は窓の外に視線を移した。
胡桃ちゃんが保護されてから、数日が経過していた。彼女は今、白峰家の客室で静かに休んでいる。でも、黒峰の影はまだ彼女の周りにまとわりついている気がして、俺は夜もあまり眠れなかった。
凪沙が彼女を匿っていた場所は、まだ肌寒い風が吹く地域だったと聞いている。胡桃ちゃんはあの部屋で、震えながら耐えていたのだろう。そのことを思うと、息が苦しくなった。
俺はスマホをポケットにしまい、階下へ降りた。
リビングでは、三姉妹がそれぞれの方法で情報をまとめていた。俺はソファに腰を下ろし、静かに切り出した。
「父さんから連絡があった。
黒峰は胡桃ちゃんを『取り戻す』ために、かなり強引な手段を準備しているらしい。
俺たちはここを守りながら、黒峰の弱点を突いていく」
葵が少し難しい顔で頷いた。
「私の方でも、黒峰関連の企業に不穏な動きがあるという話が少し入ってきたわ。特に、資金の流れが最近急に変わっているみたい」
澪は壁際に寄りかかったまま、低い声で言った。
「……夜の見回りを増やした。不審な車が近づいたら、すぐに分かるようにした」
雛が俺の隣に座り、スマホを握りしめながら言った。
「雛も友達に頼んで、黒峰の社内の噂を集めてみたよ。蓮太郎がかなり焦ってるって話がちらほら出てきた」
俺は三人の顔を見て、ゆっくりと息を吐いた。
「分かった。俺たちは焦らず、でも確実に動く。胡桃ちゃんを、もう二度と危険な目に遭わせない」
窓の外では、夏の気配を帯びた夜風が木々の葉を揺らしていた。
俺は胸の内で静かに誓った。
黒峰の闇を暴く。胡桃ちゃんを守る。そして、この夏を、みんなで穏やかに迎える。
その決意を胸に、俺はもう一度スマホの画面を見つめた。
◇◇◇
【胡桃視点】
私は白峰家の客室で、朝の光が差し込む窓辺に立っていた。
昨夜から胸の奥で温めていた決意が、静かに形を成していた。
「一度、家に帰って……お父さんと直接話したい」
その言葉を悠真ちゃんに伝えたとき、彼は驚いた顔をしたけれど、すぐに頷いてくれた。三姉妹ちゃんも、強い心配の色を浮かべながらも、私の意思を尊重してくれた。
今日、私は桃峰家に戻る。お父さんと、直接向き合うために。
悠真ちゃんが部屋のドアを軽くノックして入ってきた。
「準備はできた? 俺たちも一緒に行くから」
私は小さく頷き、深呼吸をした。
「うん……行こう」
車の中で、葵ちゃんが静かに私の手を握ってくれた。澪ちゃんは無言で前を向き、雛ちゃんは私の肩にそっと寄り添っていた。誰も何も言わなかったけれど、その温かさが、私の震える心を支えてくれていた。
桃峰家の門をくぐった瞬間、喉の奥が詰まった。
お父さんは応接室で待っていた。いつものように冷たい視線を私に向け、短く言った。
「ようやく戻ってきたか。黒峰側との顔合わせはもう済ませたのか?」
私はお父さんの正面に立ち、悠真ちゃんたちに軽く目で合図してから、静かに口を開いた。
「お父さん、私はもう、黒峰との結婚には応じません。それだけじゃなく……私はこの家から出ていきます」
お父さんの眉がピクリと動いた。
「何を馬鹿なことを。会社が潰れるかもしれないというのに、お前はまだそんなわがままを言うのか?」
私はお父さんの目をまっすぐ見つめ、声を震わせながらも、はっきりと言った。
「会社を守りたいのは本当でしょうね。でも、お父さんが私に固執するのは、会社の存続のためじゃない。ただ、自分のプライドを保つためだけです。私を取引材料に使って、世間体を繕おうとしているだけじゃないですか?」
お父さんの顔色が、みるみる青ざめていった。
「胡桃……お前、何を……」
私は一歩も引かずに続けた。
「私はもう、お父さんの道具じゃありません。これまで、ずっと言えなかったけど……私はお父さんに、愛された記憶がほとんどない。ただの駒として扱われてきただけ。だから、もう十分です。私はこの家を出て、自分の人生を生きることにします」
お父さんは言葉を失い、ただ私を睨みつけていた。その瞳に、初めて見るような動揺が浮かんでいた。
私は最後に、静かに頭を下げた。
「今まで……ありがとうございました。お父さん」
悠真ちゃんが私の肩にそっと手を置いた。
「胡桃ちゃん……もういいよ」
私は頷き、悠真ちゃんたちと一緒に桃峰家を後にした。
背後で、お父さんが何か叫んだ気がしたが、私は振り返らなかった。
胸の奥が、初めて軽くなった気がした。
これで、私は本当に自由になった。
◇◇◇
車が桃峰家の門を離れた瞬間、私は耐えきれなくなった。
「う……っ……」
私は座席で体を小さく丸め、声を殺して泣いた。涙が止まらなかった。悠真ちゃんが隣で私の肩を抱き、三姉妹ちゃんが心配そうに私を見つめているのも、ぼんやりとしか感じられなかった。
お父さんの冷たい視線。
「会社のためだ」と言って、私を取引材料にしようとした言葉。
幼い頃からずっと、愛情ではなく「役に立つかどうか」でしか見られなかった日々。
どれだけ我慢してきたのだろう。
「私は……ただ、普通の娘でいたかった……」
声が震えて、言葉にならなかった。
今までずっと、それを飲み込んできた。「家族だから」「血が繋がっているから」と自分に言い聞かせて。
でも、もう限界だった。
私は悠真ちゃんの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。これまで抑えていたすべての感情が、堰を切ったように溢れ出していた。
悠真ちゃんは黙って私の背中を優しく撫でてくれた。葵ちゃんがハンカチを差し出し、澪ちゃんが静かに私の手を握り、雛ちゃんが「もう大丈夫だよ……」と小さな声で繰り返してくれた。
車は白峰家に向かって走り続けていた。
涙はまだ止まらなかった。でも、その涙は、初めて「解放」の味がした。
※後書き※
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