第74話 黒峰の狂気
黒峰邸の奥まった一室は、酒の臭いと苛立ちで淀んでいた。
部下は震える足で部屋に入り、深く頭を下げた。
顔は青ざめ、声はかすかに震えていた。
「……報告いたします。
桃峰胡桃は……高見沢グループに保護された模様です」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
蓮太郎はソファにだらしなく沈んでいた体をゆっくりと起こし、濁った目で部下を睨みつけた。
「……は?」
部下がさらに頭を下げ、声を絞り出すように続けた。
「白峰家を経由して、高見沢の息子のもとに……」
次の瞬間、蓮太郎の手が動いた。
テーブルに置いていた酒瓶が、凄まじい勢いで部下に向かって飛んだ。
「ぐあっ!」
酒瓶は部下の額に直撃し、派手に割れた。
ガラスの破片が飛び散り、額から鮮血が噴き出した。
部下はよろめきながらも、必死に立とうとしたが、膝が崩れた。
蓮太郎は立ち上がり、脂ぎった顔を歪めて怒鳴りつけた。
「高見沢だと!?
あのガキのところに胡桃を渡したってのか!?
お前ら、何をボケッとしていたんだよ!
俺のものを、勝手に高見沢なんかに持っていかれやがって!」
血まみれの部下は床に片膝をつき、声を絞り出すように答えた。
「申し訳ありません……監視を強化していたのですが、隙を突かれて……」
「隙を突かれた? ふざけるな!」
蓮太郎はさらに声を荒げ、部下の胸倉を乱暴に掴み上げた。
「こうなったら強硬手段だ。胡桃を攫ってこい。今すぐだ。高見沢のガキからも、白峰の連中からも、力ずくで取り戻せ!」
部下は血まみれの顔を上げ、恐怖と戸惑いを浮かべて言った。
「……しかし、それは流石に犯罪行為です……
警察や高見沢グループの動きも……」
蓮太郎の目が、狂気じみた光を帯びた。
「うるせえよ! 俺の言う通りに動け! 金は俺が払ってるんだ。文句があるなら、今すぐクビだ!」
部下は血を滴らせながら、掠れた声で返事をした。
「……わかり、ました……」
蓮太郎は部下を突き飛ばし、再びソファに腰を下ろした。
脂ぎった指で新しいグラスに酒を注ぎ、一気に煽る。
「胡桃は俺のものだ……
あのガキなんかに、渡してたまるか……」
部屋に、蓮太郎の荒い息遣いと、部下が床に落ちた血の滴る音だけが響いていた。
黒峰の狂気が、静かに、しかし確実に動き始めていた。
◇◇◇
高見沢グループの本社ビル、最上階の会議室は、深夜にもかかわらず照明が強く灯されていた。
父さんは大きなデスクに肘をつき、複数のモニターを睨みつけながら低く言った。
「黒峰が動きを加速させている。
胡桃ちゃんがこちら側に保護されたことを知り、かなり焦っているようだ」
俺は父さんの横に立ち、資料を食い入るように見つめた。
父さんは一つ息を吐き、続けた。
「桃峰家に対する締め付けがさらに厳しくなっている。
同時に、胡桃ちゃんを『取り戻す』ための強引な手段を検討しているという報告が入った。
拉致を再び狙う可能性が高い」
俺の指が自然と強く握られた。
父さんは俺の表情を一瞥し、静かに言った。
「高見沢グループとして、全面的に動く。
警備体制の強化はもちろん、黒峰の資金繰りの弱点も並行して突いていく。
ただ、お前は胡桃ちゃんの安全を最優先に考えて行動してくれ」
母さんが隣の席から、穏やかだが強い口調で言った。
「悠真、胡桃ちゃんは今、白峰家にいるのよね?
無理はしないで。
私たちもできる限りのことをするから」
俺は二人の顔を順番に見て、ゆっくりと頷いた。
「分かった。
胡桃ちゃんを、もう二度と危険な目に遭わせない。絶対に守り抜く」
父さんは満足げに目を細め、静かに言った。
「その覚悟があれば十分だ。
ただ、黒峰は追い詰められると最も危険になる相手だ。油断するな」
会議室を出た後、俺はすぐに三姉妹に連絡を入れた。
白峰家に向かう車の中で、俺は窓の外の夜景を見つめながら胸の内で強く思った。
胡桃ちゃんを無事取り戻せた喜びは大きい。
しかし、それ以上に、黒峰蓮太郎がまだ諦めていないという事実に、強い危機感が募っていた。
今はただ、胡桃ちゃんを二度と危険に晒さないことだけを考えよう。
黒峰の闇を暴く準備は、着実に進めればいい。
俺はスマホを握りしめ、静かに決意を新たにした。
この戦いは、まだ始まったばかりだ。
◇◇◇
【凪沙視点】
私は深夜のアパートの部屋で、一人ソファに座っていた。
胡桃ちゃんを送り出してから、数時間が経過した。
部屋は急に広く感じられ、静けさが耳に痛い。
洗濯物の良い匂いと、丁寧に拭かれた床の感触が、まだ彼女の存在を残していた。
「胡桃ちゃん……悠真」
――「あなたもどうか、お元気で」
胸に響いたあの言葉の余韻が、まだ胸の奥に、静かに疼く。
胡桃ちゃんは無事に悠真の元へ行けたはずだ。
それでいい。
それが、私にできる精一杯の償いだった。
私は立ち上がり、キッチンへ向かった。
胡桃ちゃんが使っていたコップを洗い、棚にしまう。
彼女が毎日、丁寧に片付けていた様子が目に浮かぶ。
この狭い1Kの部屋で、彼女と過ごした数日は、私にとって予想外の安らぎだった。
彼女は私の過去を詮索せず、ただ静かに家事を手伝い、温かいお茶を用意してくれた。
その優しさが、私の胸の奥に溜まった黒いものを、少しだけ溶かしてくれた気がした。
でも、今はまた一人だ。
私は窓辺に寄り、カーテンの隙間から外の暗い夜景を見た。
遠くの街灯がぼんやりと光っている。
悠真……
あなたは今、胡桃ちゃんを抱きしめているのだろうか。
私は自分の過去を思い出す。
あなたを傷つけたこと。
利用して、捨てて、後悔したこと。
あの時の自分を、少しでも贖いたいという気持ちが、日に日に強くなっていた。
胡桃ちゃんを助けることで、少しは軽くなった気がした。
でも、心の底では、まだ重いものが残っている。
アパートの出入り口に視線を向ける。
数時間前まで、あの扉の向こうに悠真がいた。
たった数㎝の金属扉を開ければ、あの顔を見ることができた。
「はぁ……浅ましいな、私」
あの時、扉を開いて顔を合わせたら、あなたはどんな顔をしたのだろう。
私は、醜い……何も変わっていなかった。
きっと、お礼にかこつけて、言葉にしてしまっただろう。
――「お礼でもいいから、もう一度チャンスをください」
我慢できずに、そんな事を言ってしまったかもしれない。
「違う! 勘違いするな! そんなものは始めから無いんだ!」
自分の浅ましい考えが胸を焦がして、苦しくなる。
そんな資格なんてあるはずない。私は散々彼に酷い事をしてきた。
期待なんてしてはいけない。彼の傷は、きっとまだ癒えてない。
もう一生関わってはいけない。
私はまだまだ変わってなんていない。
あれからまだ2ヶ月しか経っていないのだから。
私はソファに戻り、膝を抱えた。
「変わってない……私、まだ全然変われてないよ……」
この部屋は静かすぎる。
胡桃ちゃんの小さな足音や、控えめな声が、もう聞こえない。
私は目を閉じ、静かに息を吐いた。
これでよかった。
彼女は安全な場所に戻れた。
私はただ、ここで一人、静かに生きていく。
それでも、胸の奥で小さな声が響いていた。
……もう少しだけ、誰かと一緒にいたかった。




