第73話 別れの朝・扉の向こう
【凪沙視点】
私は朝の薄明かりの中で目を覚ました。
部屋は静かで、胡桃ちゃんの寝息だけが小さく聞こえていた。
昨夜、悠真に送ったメッセージの返信が、深夜に届いていた。
【今から向かいます。住所は合っていますか?】
私は短く「はい」とだけ返信した。
それから数時間後、再びスマホが震えた。
【到着しました。アパートの前です】
私は布団からゆっくりと起き上がり、カーテンの隙間から外を覗いた。
古びたアパートの前に、白い車が停まっていた。
悠真と三姉妹が車から降りてくるのが見えた。
胸の奥が、静かに痛んだ。
私は胡桃ちゃんの布団に近づき、そっと肩を揺すった。
「胡桃ちゃん……迎えが来たよ」
胡桃ちゃんは眠そうに目をこすりながら、体を起こした。
「え……? 迎え……?」
彼女はまだ状況が飲み込めていない様子で、ぼんやりと私を見た。
私はカーテンを少し開け、外の様子を指差した。
胡桃ちゃんはベッドから降り、窓に近づいた。
その瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
悠真と三姉妹が、アパートの入り口の方を見上げている。
胡桃ちゃんの肩が小刻みに震え、瞳にみるみる涙が溜まっていった。
「……悠真ちゃん……」
彼女の声は掠れ、涙が一筋、頰を伝った。
私は静かに微笑み、短く言った。
「今日まで楽しかったよ。元気でね」
胡桃ちゃんは慌てて振り返り、私に矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「どうして悠真ちゃんを呼べたの?
どうしてあの人が迎えの人だと分かったの?
お姉さん、どうして……」
私は首を静かに横に振り、すべてを拒否した。
それ以上、彼女の疑問に答えることはできなかった。
悠真に会うわけにはいかない。
私の顔を見れば、きっと警戒される。
それに、私はまだ、自分の過去を彼に直接向き合う勇気がなかった。
私は胡桃ちゃんの肩に軽く手を置き、柔らかく言った。
「それより、ほら。
あなたの大切な人に、元気な姿を見せてあげなさい」
胡桃ちゃんは涙を拭いながら、何度も頷いた。
彼女は私の手を取って、強く握り返した。
「……ありがとう、お姉さん。
本当に、ありがとう……」
私はただ、静かに微笑んだ。
胡桃ちゃんが部屋を出て行く足音が、廊下に小さく響いた。
ドアが閉まる音がした後、私は一人、部屋の真ん中に立っていた。
窓から外を見ると、胡桃ちゃんが悠真ちゃんの元へ駆け寄っていく姿が見えた。
三姉妹が彼女を抱きしめ、悠真ちゃんが安堵の表情を浮かべている。
私はその光景を、静かに見つめ続けた。
胸の奥が、静かに疼いた。
これで、少しは償いになっただろうか。
部屋は再び静かになった。
私は布団に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
胡桃ちゃんが無事で良かった。
それだけを、心の中で繰り返した。
◇◇◇
胡桃ちゃんがアパートの階段を駆け下りてきた瞬間、俺の胸に熱い塊が一気に爆発した。
「悠真ちゃんっ、悠真ちゃん!」
彼女は涙をいっぱいに溜めた目で俺を見上げ、勢いよく飛びついてきた。
小さな体が俺の胸にぶつかり、震える腕が背中に回される。
その瞬間、数日間ずっと胸を締め付けていた重い不安が、音を立てて崩れ落ちた。
胡桃ちゃんの温もりが、俺の体全体に染み渡る。
彼女の震えが、俺の心臓に直接伝わってくるようだった。
俺は彼女の背中を強く抱きしめ、掠れた声で言った。
「心配したよ……本当に、無事でよかった……」
胡桃ちゃんは俺のシャツを握りしめ、嗚咽を漏らしながら答えた。
「親切なお姉さんに助けてもらったの……本当に、怖かった……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で安堵と感謝が同時に溢れ出した。
反対に、彼女を守れなかった自分への苛立ちが、鋭く胸を刺した。
三姉妹が一斉に近づいてきた。
葵が優しい声で、しかし少し緊張を帯びて言った。
「胡桃ちゃん……無事で本当に良かったわ。
もう大丈夫よ」
澪が静かに胡桃ちゃんの肩に手を置き、低い声で続けた。
「……よかった」
雛が胡桃ちゃんのもう片方の腕を優しく掴み、明るく、でも目に涙を浮かべて言った。
「胡桃ちゃん! もう離さないからね!」
一通りやり取りが終わった後、俺はアパートの入り口に視線を向けた。
助けてくれたお姉さんにお礼を言うために、インターホンのボタンを押した。
しかし、反応はない。
仕方なく、ドア越しに声を掛けた。
「すみません……胡桃ちゃんを助けてくださった方ですか?
お礼をさせてください」
中から、静かな女性の声が返ってきた。
「必要ありません。お引き取りください」
その瞬間、俺の背筋が凍りついた。
声の響きが、頭の奥に突き刺さった。
なんだ……この声、知ってる気がする。
布で口を覆っているようなくぐもった声だけど、この響き、知っている。
それでもドア越しに声をかけ続けた。
「そんな、是非お礼をさせてください」
「いいえ、お引き取りください」
「せめて、直接お顔だけでも……」
「見返りを求めての事ではありませんので、これで」
「だけど……」
その瞬間、ドアが凄い勢いで叩かれる音が響き、それ以上の怒号が飛んでくる。
「必要ないって言ってるでしょ! さっさと帰りなさいよ!」
その声に、俺の心臓が激しく鳴った。
……この声。
つい最近まで聞いた事がある声だ。
記憶の底から、嫌な痛みが一気に蘇ってきた。
あの時の冷たい笑顔、俺を利用して貢がせ、捨てた時の嘲る声、
俺の気持ちを玩具のように扱った残酷な言葉。
すべてが、瞬時にフラッシュバックして、胸を抉った。
だが、声の主は直ぐに穏やかな声に戻る。
「……失礼しました。本当にお礼も顔合わせも不要ですから。胡桃ちゃんをお願いします」
……。そうか、この扉の向こうにいるのは。
アイツ、なんだな。
俺はドアの前に立ち尽くしたまま、胸の中で激しい感情が渦巻くのを感じた。
怒り、戸惑い、予想だにしなかった衝撃。
簡単に許せるはずがない。
あの時の痛みと裏切りは、まだ俺の胸の奥に深く刻まれている。
それでも——
彼女が胡桃ちゃんを助けてくれたという事実は、揺るがない。
俺は深く息を吸い、声を絞り出した。
「わかり、ました。だけど、本当にありがとうございます。彼女は、俺の大切な幼馴染みなんです。あなたに保護してもらえなければ、どうなっていたか分かりません。本当に感謝しています。これだけは言わせてください。ありがとうございました」
「お礼の言葉、受け取りました。どうぞお引き取りください」
「はい、あなたもどうか……お元気で」
俺はそのままドアから離れてその場を後にした。
微かにすすり泣く声が聞こえた気がして、扉の向こうにいるであろうアイツに想いを馳せる。
もう二度と思い出すことはないと思っていたけど、そうか……彼女が胡桃ちゃんを助けてくれたのか。
簡単に許そうとは思わない。
だけど、アイツは変わろうとしているのだろう。
それは俺の家に預けていった200万という大金から、その覚悟の強さが見て取れる。
俺は車に向かいながら、静かに息を吐いた。
胡桃ちゃんを無事取り戻せた喜びと、凪沙への複雑な感情が、胸の中で激しく交錯していた。
今は、胡桃ちゃんを白峰家に連れて帰ることだけを考えよう。
それでも、俺の心のどこかで、凪沙の声がまだ小さく響き続けていた。
俺はもう一度アパートの方を振り返って深く一礼をし、車に乗り込むのだった。
※後書き※
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