第72話 穏やかな日々と、贖罪の決意
【胡桃視点】
私は早朝の薄明かりの中で目を覚ました。
部屋はまだ静かで、窓の外から聞こえる鳥の声だけが、かすかに響いていた。
外に出るのは怖い。
だから、私は毎朝のように、布団を静かに畳んで立ち上がった。
台所へ向かい、昨夜の食器を洗い始める。
スポンジを手に持ち、水の音を立てないように慎重に動かした。
料理は不得意だったから、代わりに掃除や洗濯を中心に手伝うことにしていた。
洗濯機の蓋を開け、溜まった服を丁寧に分類していく。
お姉さんのシャツやタオルを見ると、胸の奥が少し疼いた。
彼女は昼間と夕方に分けて二つの仕事を掛け持ち、深夜に帰ってくる日々が続いている。
そんな大変な生活なのに、私のために部屋を空けてくれている。
申し訳なさが、毎朝のように胸に重くのしかかる。
掃除機をかけるときは、音が響かないよう弱モードにし、隅々まで丁寧に吸い取った。
床の埃を払い、テーブルの上を拭く。
小さな動作一つ一つに、彼女への感謝と、自分がここにいることへの罪悪感が混じっていた。
お姉さんは何も言わない。
私が勝手に家事を始めても、ただ静かに受け入れてくれる。
それが、逆に私の心を締め付けた。
朝の光が部屋に満ち始めた頃、洗濯物を干し終えた私は、ソファに腰を下ろした。
外の世界はまだ遠く、ドアの向こうに何があるのかと思うだけで、息が苦しくなる。
ここにいる限りは安全だ。
私は目を閉じ、静かに息を整えた。
この数日、浮子さんのアパートで過ごす時間は、私にとって唯一の安らぎだった。
古びた木造の1Kの部屋は狭く、壁紙もところどころ剥がれかけていたが、彼女の存在がすべてを柔らかく包み込んでくれる。
少しして、寝室の方から小さな物音が聞こえた。
「おはよう、胡桃ちゃん」
浮子さんが眠そうな声で部屋から出てきた。
黒髪が少し乱れ、柔らかい表情が朝の光に溶け込んでいる。
「おはようございます、浮子さん」
私は立ち上がり、準備しておいたお茶を差し出した。
彼女は凪島浮子さんと言うらしい。
自分でも「珍しい名前でしょ?」と苦笑していた。
「ん~、はぁ。悪いわね。朝が弱くて。すぐに朝食準備するね」
「はい、すみません、料理できなくて……」
「気にしないで。誰にでも得意不得意はあるし、洗濯と掃除してくれて助かってるもの」
浮子さんは微笑みながら、キッチンへ向かった。
私はその背中を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
彼女は本当に優しい。
毎日、疲れた体で帰ってきても、私のことを気遣ってくれる。
私はただ、ここにいるだけで申し訳なくて、せめて掃除や洗濯で恩返しをしようと心がけていた。
朝食の準備をしながら、浮子さんがふと振り返った。
「胡桃ちゃん、今日もありがとう。
おかげで少し楽になったわ」
私は顔を上げ、控えめに答えた。
「そんな……私の方が、ずっとお世話になっています。
本当に、申し訳ないです」
浮子さんはお茶を一口飲み、優しく目を細めた。
「ここにいてくれるだけで、心強いよ。
一人でいるより、誰かがいるってだけで、部屋が明るくなる気がするの」
狭いキッチンで、二人は並んで簡単な朝食を準備した。
浮子さんがトーストを焼き、私はサラダを盛り付ける。
言葉は少なくても、その時間がとても穏やかだった。
食事を終えた後、浮子さんはコートを羽織りながら言った。
こっちの地方はまだ寒い。半袖の制服しか持っていない私は、浮子さんの服を借りて過ごしていた。
「今日は少し遅くなるかもしれないけど、夕方には1度様子を見に帰るわ」
私は頷き、ドアまで見送った。
「行ってらっしゃいませ。
気をつけてください」
ドアが閉まった後、私は静かに部屋に戻った。
まだ外に出るのは怖い。
だから、今日も掃除と洗濯を丁寧に済ませ、彼女が帰ってきたときに少しでも楽ができるようにしておく。
狭い1Kの部屋の中で、私はそっと息を吐いた。
浮子さんは優しい。
毎日、疲れた体で帰ってきても、私のことを気遣ってくれる。
そんな彼女に、少しでも恩返しができているなら、それだけで良かった。
でも、心の奥では、悠真ちゃんの顔が浮かんで離れない。
私は窓の外の景色を眺めながら、静かに思った。
この温かい日々が、いつまで続くのだろう。
◇◇◇
【凪沙視点】
私は深夜のアパートのドアを静かに開けた。
疲れが体に染みついていて、肩が重く、足取りも鈍い。
今日も朝から夕方までのシフトをこなし、夜のアルバイトを終えて帰ってきた。
鍵を回す音が、静かな廊下に小さく響いた。
部屋の中は、予想通り明かりが落ちていた。
ただ、洗濯物の良い匂いと、床が丁寧に拭かれた清潔感が、ふわりと漂ってくる。
胡桃ちゃんが、また家事を済ませてくれていたようだ。
私は靴を脱ぎ、そっと部屋に入った。
ソファの近くに置かれた小さなメモが目に入る。
「今日もお疲れ様です。少しでも休んでください」と、丁寧な字で書かれていた。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
胡桃ちゃんは私の事情を何も聞かない。
私が彼女の事情を聞かないのと同じように、ただ静かに一緒に過ごしてくれている。
それが、彼女の優しさであり、恐らくは自分の痛みを隠すための方法でもあるのだろう。
私はキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。
胡桃ちゃんが作ってくれた簡単なサンドイッチが、ラップに包まれて置かれていた。
私はそれを手に取り、ソファに腰を下ろした。
一口かじると、柔らかいパンと新鮮な具材の味が、疲れた体に染み渡る。
彼女は料理が苦手だと言っていたが、こうして毎日、少しずつ私の負担を減らそうとしてくれている。
私はサンドイッチを食べながら、静かに息を吐いた。
この数日、胡桃ちゃんは外に出ることを怖がっている。
それでも、部屋の中を綺麗に保ち、洗濯物を畳み、私が帰る頃には温かいお茶を用意してくれている。
そんな彼女の気遣いが、胸に染みる。
私は食べ終えた皿をシンクに置き、自分の布団へ向かった。
胡桃ちゃんはすでに布団の中で静かに眠っていた。
小さな体を丸め、穏やかな寝息を立てている。
その寝顔を見ていると、彼女が抱えている重い事情が、改めて胸に迫ってくる。
私は自分の布団に横になり、天井を見つめた。
彼女の事情に首を突っ込まないと決めた。
私自身も、過去を誰かに話す勇気がないからだ。
それでも、この部屋で一緒に過ごす時間は、私にとっても、静かな救いになっていた。
胡桃ちゃん……
あなたが少しでも安心できる場所でいられるように、私はただ、ここにいる。
部屋の外で、遠くの車の音が小さく響いていた。
薄暗い部屋の中でスマホを手に取っていた。
ここ数日、彼女は自分の身の上を、少しずつ話してくれるようになった。
詳しい名前は出さなかったし、私も聞かなかった。
それでも、話の端々に浮かぶ「大切な人」の存在が、徐々に形を帯びてきた。
その「大切な人」は、優しくて、守ってくれる存在だったらしい。
胡桃ちゃんの声が、話すたびに柔らかくなる。
私はそれを聞きながら、胸の奥で静かな確信を抱き始めていた。
……きっと、あの人だ。
悠真。
やっぱり、あの最初の番、彼女が寝言で口にした「悠真ちゃん」という言葉は、聞き間違いじゃなかった。
私は咄嗟に自分の名前を偽った。
私は以前のスマホを手放し、連絡先をすべて変えた。
でも、悠真の番号だけは、別のメモに残してあった。
ブロックされている以前のアドレスは使えない。
名乗れば、きっと警戒される。
拒否されるかもしれない。
それでも、私は連絡を取らなければならない。
胡桃ちゃんは今、誰かの影に怯えながら、この部屋で静かに過ごしている。
彼女の笑顔は少しずつ明るさを取り戻しつつあるが、夜になると、ふと遠い目をする。
私はその姿を見て、胸が痛んだ。
私は自分の過去を思い出した。
悠真を傷つけたこと。
利用して、捨てて、後悔したこと。
あの時の自分を、少しでも贖いたいという気持ちが、日に日に強くなっていた。
胡桃ちゃんを助ける。
それが、私にできる唯一の方法かもしれない。
私は深く息を吸い、保存してあった悠真の番号を、別のアドレスから送信する準備をした。
名乗らない。
ただ、胡桃ちゃんの居場所を伝えるだけ。
それで十分だ。
指が画面に触れた瞬間、心臓が少し速くなった。
「これで……少しでも、償いになるといい」
私は短いメッセージを打ち、送信ボタンを押した。
画面が送信完了を示すと、私はスマホを膝の上に置いた。
外は静かだった。
胡桃ちゃんは隣の部屋で、穏やかな寝息を立てている。
私はその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
悠真……
あなたなら、きっと動いてくれる。
私はただ、そう信じて待つしかなかった。




