第69話 優しい人の家
【胡桃視点】
私は駅のベンチで小さくうずくまっていた。
体が冷えて震え、膝を抱える腕に力が入らない。
周囲は静かで、遠くの街灯だけがぼんやりと光っている。
「どうしたの? 大丈夫?」
突然、優しい声がすぐ近くで聞こえた。
私はびくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、黒髪の女性だった。
私より少し背が高く、清楚で柔らかい雰囲気の人。
でも、その瞳には深い疲れと、どこか諦めのような悲しみが浮かんでいて、胸がざわっとした。
「その制服……」
彼女は私の姿を見て、一瞬ハッとした表情になった。
しかし、すぐに元の優しげな顔付きに戻り、穏やかに言った。
「半袖でいるには、もう肌寒い時間帯ね。
近くに私のアパートがあるの。よかったら、少し休んでいかない?」
私は言葉に詰まりながらも、震える声で答えた。
見ず知らずの人に迷惑は掛けられない。だけど、そんな常識的な判断すら困難になるほど、心は疲弊しきっていた。
「……お邪魔……します」
女性は優しく微笑み、私を促して歩き始めた。
アパートは駅から少し離れた、静かな場所にあった。
部屋に入ると、温かい空気が体を包み込んでくれた。
質素でほとんど物がない。でも、不思議と清潔感があった。
「お腹空いてない? 大した物はできないけど、よかったら食べていって」
「そんな、ご迷惑じゃ……」
「気にしなくていいわ。丁度今日は1人鍋にしようと思って材料は多めに買ってあるのよ」
彼女はそう言って、微笑みながらキッチンへ立った。
私はソファに座り、膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
温かい部屋の中で、ようやく体が少しずつ緩んでいくのを感じた。
やがて、湯気の立つ鍋がテーブルに運ばれてきた。
シンプルだけど、心のこもった夕食だった。
私は小さく頭を下げて言った。
「……ありがとうございます」
彼女は優しく目を細め、静かに答えた。
「いいのよ。ゆっくり食べていって」
私は箸を手に取りながら、胸の奥で静かに思った。
この優しいお姉さんは、きっと私のことを何も知らない。
それでも、温かく迎えてくれた。
「あ、あの……私」
「いいのよ。事情は聞かない。帰れないなら、しばらくここにいて構わないから」
「で、でも」
「気にしない気にしない。それよりほら、温かいうちに食べて。これでも料理は得意なの」
よそってもらえた水炊きの湯気が、心に染みる気がした。
恐る恐る一口出汁を啜ると、冷え固まった体が心ごと溶かされるような気持ちになる。
「美味しい……」
「そう、良かった」
黒峰に掴まれた腕がジクジクと痛む。
だけど、彼女の料理がその傷みも癒やしてくれるような気がした。
「お替わりも沢山あるからね」
私は小さく頷きながら、もう一口を口に運んだ。
温かい出汁が喉を通るたび、胸の奥にじんわりと何かが広がっていく。
この部屋は静かで、優しい匂いがする。
黒峰の車の中で感じた恐怖や、父親の冷たい声が、少しだけ遠のく気がした。
悠真ちゃんとは、違う温かさが、そこにあった。
でも、心のどこかで、私はまだ震えていた。
この優しいお姉さんは、私のことを何も知らない。
それでも、温かく迎えてくれた。
私は箸を握る手に力を込めながら、静かに思った。
今はただ、この温かさに浸っていたい。
でも、いつまでここにいられるのだろう。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
見知らぬお姉さんは遠慮する私の器を奪い取ってお替わりをよそってくれる。
私はお替わりを一口食べながら、そっと女性の顔を見た。
彼女は優しく微笑んでいるのに、どこか遠い目をしている。
その表情に、ふと胸がざわついた。
「お姉さん……何か、あったんですか?」
女性は少し驚いたように目を瞬き、すぐに柔らかい笑顔に戻った。
「ええ……少しね。
でも、今はあなたのことが心配よ。
こんな寒い夜に、制服のまま一人で駅にいたなんて……」
彼女は自分の過去を話すのを避けるように、鍋のおかわりを私の器に静かによそってくれた。
私は小さく頭を下げながら、言葉を続けた。
「……ありがとうございます。
私……どうしようもなくて……」
女性は自分の器に少しだけ汁を注ぎ、ゆっくりと一口飲んだ。
その時、彼女の瞳に、ほんの一瞬だけ深い影がよぎった。
私はそれを見逃さなかった。
「お姉さん……本当に大丈夫ですか?
何か、辛いことがあったみたいに……見えます」
女性はグラスに手を伸ばし、水を一口飲んでから、静かに息を吐いた。
「少し前に、ね……すごく大切な人を傷つけてしまったの。
自分では『得をしている』と思っていたのに、その実、相手を利用して、捨てて……
その後で、初めて自分がどれだけ愚かだったかに気づいた。
今はもう、取り返しのつかないことばかり。
毎日、後悔しながら生きているわ」
彼女の声は穏やかだったが、言葉の端々に、抑えきれない悲しみが滲んでいた。
「その人は……とても優しくて、純粋で……
私のワガママなんて、全部受け止めてくれていた。
でも、私はそれを『便利』だと思って、踏みにじってしまった。
今になって、ようやくその温かさがどれだけ尊いものだったか、分かったの。
でも、もう遅い……」
女性はそこで言葉を切り、窓の外の暗い夜を見つめた。
その横顔は、優しいのに、どこか壊れそうで、私は胸が痛くなった。
「だから、かな……。そんな醜くて汚い自分を、少しでも変えたくて、困っていそうなあなたを助けたら、自分も何か変われるかもって……ね」
「そう……なんですね」
「ええ、だからあなたを助けたのは、ほとんど自己満足みたいなものよ。親切じゃない。ごめんなさい……こんな話、急に……」
私は慌てて首を振った。
「いえ……
お姉さんが、そんな風に後悔しながら生きているなんて……
少し、驚きました。
でも……その気持ち、ちょっと分かる気がします。
私も……大切な人を、傷つけてしまったような気がして……」
女性は静かに微笑み、私の肩に軽く手を置いた。
「あなたはまだ、遅くない気がする。
これから、ちゃんと向き合える時間がある。
私は……もう、取り戻せないけどね」
部屋の中に、静かな沈黙が落ちた。
私は温かい鍋の湯気を眺めながら、胸の奥で静かに思った。
このお姉さんは、きっと誰かを深く傷つけてしまった過去を抱えている。
その悲しみは、優しい笑顔の裏に、静かに息づいている。
私はまだ、この人の名前も知らない。
でも、その悲しみが、なぜか私の胸に重く響いていた。
彼女の胸元で、銀色のリングを通したネックレスが小さく揺れていた。
まるで、彼女が大切に守り続けている何かのように。




