第38話 優しい日常の始まり
凪沙も、瑛斗も、全てを失った。
学校は二人の退学を正式に決定した。
同時に、警察の捜査が静かに始まっていた。
朝倉瑛斗のメールにあった下須川って奴も、一連の事件に関与した疑いで事情聴取を受け、瑛斗のバンドメンバー全員が活動停止に追い込まれた。
学園内では、数日間にわたって二人の名前が囁かれ続け、誰もがその顛末を遠巻きに見守っていた。
悠真は三姉妹と共に、白峰家のリビングでそのニュースを聞いていた。
大きなソファに腰を下ろし、テレビのニュース番組が小さく流れている。
画面には「高校生の飲酒・脅迫事件、関係者逮捕へ」という見出しが一瞬映り、すぐに別の話題に切り替わった。
葵が俺の左側に寄り添い、傷の残る頬にそっと指を這わせた。
冷たい湿布の感触が、まだ少し疼く傷口を優しく包む。
「もう大丈夫だよ、悠真くん……」
葵の声はいつものように柔らかかったが、どこか安堵と疲れが混じっていた。
「これで、本当に終わったね……
悠真くんがこれ以上傷つくことは、もうないよ……」
彼女の指先が、俺の頬を優しく撫で続ける。
その温かさが、胸の奥までじんわりと染み込んでくる。
澪は俺の右側に静かに座り、無言のまま俺の左手を自分の両手で包み込んでいた。
彼女の掌は少し汗ばんでいて、いつもより強く握っているのがわかった。
言葉はない。
ただ、静かに、熱い体温を伝えてくれるその仕草が、澪なりの「もう心配しなくていい」というメッセージだった。
雛は俺の正面に膝立ちになり、右腕にぎゅっと抱きついてきた。
栗色のセミロングが俺の胸に広がり、甘いシャンプーの香りがふわりと漂う。
「悠真……もう大丈夫だよね? もう誰も悠真を傷つけないよね……?」
雛の声は少し震えていた。
大きな瞳にまだ不安の色が残っていて、俺の傷ついた頬を何度も確認するように見つめてくる。
俺は三人の温もりに包まれながら、静かに息を吐いた。
「……うん。もう大丈夫だよ。みんながいてくれるから」
失った者たちは、各自の地獄で後悔を噛みしめているだろう。
ここで、俺が知った2人の顛末について話しておこうと思う。
凪沙は退学処分になり、未成年で飲酒、喫煙などの非行も数多くやってきた。
瑛斗、下須川関連の事件に関しては被害者に近い立ち位置なので、事情聴取は受けても加害者として警察沙汰になることはなさそうだ。
凪沙の両親は毒親だったらしい。
その家で、父の冷たい視線と母の無関心に囲まれながら、
自分が手放した「優しさ」の価値を、今頃になって痛いほど思い知っているはずだ……と、報告があった。
つまり、彼女は彼女なりに、俺への想いがあったということか……。
今更そんなことで情が動いたりはしないけど、もしも違った未来があったならと、考えなくはない。
本性が暴かれ、これまで築いてきた友人との信頼関係は完全に瓦解。
誹謗中傷の飛び交う裏アカウントは、毎日酷い罵詈雑言が浴びせられていることだろう。
今更あのアカウントを覗いたりはしないだろうけど、完全に自業自得だ。
瑛斗の両親もまた、違うタイプの毒親。
こっちは完全にクズ人間であり、瑛斗はあの機能不全を拗らせたような家庭で、父の罵声と母の八つ当たりを受けながら、
自分が積み上げてきたものが全て崩れ落ちる現実を、目の当たりにしているはずだ……と、これまた報告があった。
やっている事が事だけに、警察のお世話になるのは免れないようで、逮捕、起訴される可能性が非常に高い。
特に「下須川のような第三者に渡した」点が重く見られ、実刑(執行猶予付き含む)の可能性もある。
18歳なので少年法は適用されず、成人として扱われる。
つまり前科が付く可能性が非常に高く、毒親家庭でさらに激しい暴力・罵倒を受け、家庭内でも孤立。
バンド活動は完全に崩壊。
将来的に就職も難しく、犯罪者としてのレッテルを貼られ続けることになる。
下須川何某も、警察の事情聴取を受け、
これまで自分勝手に扱ってきた「女たち」の影が、次々と自分にのしかかってくるだろう。
これが葵が調べてくれた一連の事件に関与した人物達の末路だった。
◇◇◇
保健室での甘い時間が終わってから数日が経った。
学校は少しずつ落ち着きを取り戻し、凪沙と瑛斗の名前を口にする生徒も減ってきた。
俺の頬の傷も、薄い絆創膏を貼っただけでほとんど目立たなくなっていた。
放課後、俺はいつものように三姉妹と一緒に白峰家へ向かっていた。
「悠真くん、今日は少し疲れてるみたいだね……」
葵が俺の左手を優しく握りながら、心配そうに微笑んだ。
蜂蜜色のゆるふわロングヘアが夕陽に輝き、いつもの癒やしオーラが俺を包み込む。
「少しだけね。でも、みんなと一緒に歩いていると、なんだか元気が出てくるよ」
俺が素直に答えると、葵の目が優しく細められた。
「ふふ……それならよかった。
今日は私が特別に、悠真くんの好きなシチューを作ってあげるね」
右側からは、雛が俺の腕にぎゅっと絡みついてきた。
栗色のセミロングが跳ね、元気いっぱいの笑顔が俺に向けられる。
「悠真ー! 雛も手伝うよ!
今日は特別に、デザートもいーっぱい作っちゃうからね!
えへへ、悠真が喜ぶ顔が見たいなー♡」
雛の大きな胸が俺の腕に柔らかく押し当てられ、甘い体温が伝わってくる。
その無邪気な甘え方に、思わず頰が緩んだ。
少し後ろを歩く澪は、無言のまま俺のカバンを持ってくれていた。
時折、俺の横顔をじっと見つめ、静かに近づいてくる。
「……ゆーま」
短い呼びかけとともに、澪が俺の左腕にそっと自分の腕を絡めてきた。
言葉は少ないけれど、その仕草一つ一つに、静かで深い想いが込められているのがわかった。
三姉妹に囲まれながら歩く道は、
以前とは比べものにならないほど温かく、安心できるものになっていた。
白峰家に着くと、葵がエプロンを付けながらキッチンへ向かった。
雛はすぐに葵の横に並び、楽しそうに材料を並べ始める。
「悠真、座ってて! 今からおいしい匂いがいーっぱいするよー! 楽しみにしててねー♪」
俺がソファに腰を下ろすと、澪が自然と隣に座ってきた。
彼女は無言のまま、俺の肩に頭を預けてくる。
「……疲れた?」
「少しだけ。でも、みんながいるから大丈夫」
澪の体温がじんわりと伝わり、俺は自然と目を閉じた。
キッチンからは、葵と雛の楽しげな声が聞こえてくる。
「葵ちゃん、味見して! どう? どう?」
「ふふ、美味しいよ陽菜ちゃん。
でも、悠真くんが一番喜ぶように、もう少し優しい味にしましょうね」
その声だけを聞いているだけで、心が穏やかになっていく。
俺は目を閉じたまま、三姉妹の存在を改めて噛みしめた。
凪沙と瑛斗が失ったもの。
下須川事件に巻き込まれた一連の出来事。
それら全てが、もう遠い出来事のように感じられた。
今、ここにあるのは、ただ優しくて甘い日常だけ。
葵がシチューを煮込むいい匂い、
雛の明るい笑い声、
澪の静かな体温——
これが、俺の新しい日常だった。
「悠真くん、お待たせ……」
葵が優しい笑顔で俺を呼ぶ。
雛が「できたよー!」と元気よく駆け寄り、
澪が無言で俺の手を引いて立ち上がらせてくれる。
俺は三姉妹に囲まれながら、
心から温かい気持ちで食卓に向かった。
傷はもうほとんど痛まない。
心の傷も、三姉妹の優しさが、ゆっくりと、確実に癒してくれていた。
これからも、この甘くて優しい時間が、
ずっと続いていくことを、俺は静かに願っていた。
【第1部 了】
いつもお読みくださり誠にありがとうございます。
ここまでで第1部が完了となります。
いかがでしたでしょうか。
第2部も始まります。よかったら引き続きお付合いくださいませ。
※後書き※
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