第37話 全ての決着
【浮島凪沙 視点】
退学が正式に決定してから四日目。
出て行くと啖呵を切ったのに、それすらできずに、私は自分の部屋のベッドに横たわり、天井の染みをぼんやりと見つめていた。
カーテンは閉め切ったまま。
外の光が少しでも入るのが、耐えられなかった。
父はあの夜以来、私と目を合わせようともしない。
時々廊下で出会うと、ただ冷たい一瞥をくれるだけ。
母は私の顔を見るとすぐに目を逸らし、「ご飯は自分で作って」とだけ言う。
弟は私の部屋の前を通る時でさえ、足音を忍ばせて通り過ぎるようになった。
この家の中で、私はもう「家族」ではなく、ただの厄介者になっていた。
スマホは電源を切ったまま。
通知が来るたびに、クラスメイトからの罵倒、昔の「友達」からのブロック、ネット上の拡散された悪口が届くのが怖かった。
私はベッドからゆっくりと起き上がり、部屋の隅に落ちていた指輪を拾った。
悠真が最初にくれた、あのシンプルなシルバーの指輪。
指輪を掌に載せ、じっと見つめる。
胸が、激しく締め付けられた。
「……悠真……」
声に出した瞬間、後悔が波のように押し寄せてきた。
(ああ、まただ……また思考がループする)
悠真は優しかった。
悠真はいつも気遣ってくれた。
悠真は私が欲しがっているものを、いち早く察知して、先回りしてくれた。
悠真の笑顔、悠真の温かい言葉、悠真が照れながらプレゼントを渡してくれた時の表情……
全てが、今になって胸を抉る。
私は自分で一番大切なものを、手放してしまった。
ゴミのように、捨ててしまった。
「あは……あはは……あはははは……」
笑いながら泣いている自分が、たまらなく惨めだった。
指輪を胸に強く押し当て、声を殺して嗚咽を漏らす。
この4日間、何度同じ思考をループしたのか、もう数え切れない。
「私は……好きだったんだ……
本当は、悠真のことが……好きだったのに……
なんで今になって……こんなに遅く、気がついちゃうんだよ……
一生、気がつかない方が……幸せだったのに……」
ロボットのように同じ言葉が漏れ出る。
後悔が、喉を焼く。
後悔が、胸を抉る。
後悔が、頭の中を真っ白に染め上げる。
自分が本当に失ったものが何だったのかを、
痛いほどに、遅すぎるほどに、思い知らされていた。
悠真との思い出に浸り、楽しかった気持ちを再認識していく時間が心の痛みを誤魔化した。
そして時間が経つと、自責の念と激しい後悔が更なる炎となって心の中を焼き尽くしていく。
こんなことを何度も何度も繰り返していた。
◇◇◇
【朝倉瑛斗 視点】
自宅待機になってから五日目。
俺は自分の部屋のベッドに寝転がり、天井をぼんやりと見つめていた。
ギターは壁に立てかけられたまま。
もう触る気にもなれない。
リビングからは父の怒鳴り声が聞こえてくる。
「またあいつか! うちの恥を晒しやがって!
警察が来るってどういうことだ!」
母の泣き声も混じっている。
「あなたのせいよ! あんたがちゃんと教育しなかったから……!」
「うるせぇ、ガキの教育は母親の仕事だろうが!」
いつもの、毒親の喧嘩。
ただ、今回は俺が中心にいる。
「ちっ……うるせえな」
兄は5年前に家を出たきり、連絡すら寄こさない。
俺は一人で、この崩壊した家族の矢面に立たされている。
スマホを開くと、学校からの正式な退学通知が届いていた。
さらに、警察から事情聴取の連絡も来ていた。
未成年飲酒・喫煙・動画の不正譲渡・脅迫の疑い。
下須川の名前も出てきているらしい。
俺はベッドに深く沈み込み、冷たい笑いを浮かべた。
「……全部、終わったな」
ライブも、バンドも、派手な毎日も、凪沙という金づるも——
全て失った。
父が部屋のドアを乱暴に開けた。
「お前! 警察が来るってよ!
ふざけやがって! こっちはいい笑いもんだ! ちゃんと説明しろっ」
父の顔は真っ赤で、酒の臭いが部屋中に広がる。
母が後ろで怯えた顔をしている。
俺はゆっくりと起き上がり、父を冷ややかに見つめた。
「説明? お前らに説明する必要なんてねえよ。
俺はただ……このクソみたいな家から逃げ出したかっただけだ」
父の顔がさらに歪む。
「このクソガキが……!」
拳が飛んできた。
俺は避けなかった。
頰に強い衝撃が走り、口の中に血の味が広がる。
それでも、俺は笑っていた。
この家で育った俺は、最初から壊れていたのかもしれない。
愛情を知らず、金でしかものを測れず、他人を利用してしか生きられなかった。
今、すべてを失って、ようやく気づいた。
俺は、ただのクズだった。
父の罵声と母の泣き声が遠くに聞こえる中、俺は床に倒れ込み、静かに目を閉じた。
(クソが……イライラすんな。親も、学校も、凪沙も、高見沢も……全部クソだ)
心を焼き尽くす苛立ちの炎が身を焦がし続けていた。
だが、全てを失った今、もはや何もする気力が湧かなかった。
◇◇◇
その頃——
夜の8時半。下須川が経営する小さな音楽事務所の入った雑居ビル。
駐車場に停められた黒いセダンから、数人の刑事が静かに降りてきた。
彼らは互いに目配せをし、事務所の入り口に向かう。
先頭に立つのは、40代後半の刑事。
手に持った令状が、街灯の光に鈍く光っていた。
事務所の中では、下須川がソファに深く腰を沈め、煙草をくわえながらスマホをいじっていた。
派手なアロハシャツに金色のネックレス。
30歳後半を過ぎても、若い頃の「顔が利くワル」としての威圧感を保とうとしていた。
「チッ……瑛斗のガキ、面倒なことしやがって……」
彼は苛立った様子で煙を吐き出した。
凪沙の動画を受け取ったのは事実だったが、「ただの遊び」だと思っていた。
まさか全校生徒に拡散され、自分の名前まで出てくるとは予想外だった。
その時、事務所のドアがノックされた。
「下須川さん、警察です。開けてください」
下須川の表情が一瞬で凍りついた。
「……け、警察?」
彼は慌てて煙草を灰皿に押しつけ、立ち上がった。
ドアを開けると、複数の刑事が一斉に中に入ってきた。
「下須川健一さんですね?」
先頭の刑事が、冷たい目で彼を見据えた。
「はい……何か?」
背筋が凍る。心臓が灼熱の早打ちを始めた。
「令状があります。
あなたを、性的姿態撮影等処罰法違反(リベンジポルノ防止法)、児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いで逮捕します。
また、脅迫罪および強要罪の幇助の疑いもあります」
下須川の顔から、血の気が引いていくのが自分でもわかった。
「は? ま、まま、待てよ……俺はただ、瑛斗のガキから動画をもらっただけだぞ! そんな大げさな……」
刑事が淡々と続けた。その眼光には一遍の慈悲も込められていない。
「受け取った動画は、未成年女性の性的画像です。
さらに、あなたはそれを『スポンサーへの接待』として利用しようとしていた形跡があります。
他の女性の画像も多数押収済みです。
黙秘権を告げます。弁護士を呼ぶ権利もありますが……今は任意同行をお願いします」
下須川は後ずさり、壁に背中をぶつけた。
事務所の奥から、慌てた足音が聞こえてくる。
彼の部下たちが状況を察して顔を青ざめさせていた。
「くそ……あのガキが……!
瑛斗のせいだ……あいつが動画を寄こしたから……」
刑事が手錠を構えながら、静かに言った。
「瑛斗くんもすでに自宅待機中で、事情聴取を受けます。
あなたが彼に『動画を寄こせ』と指示していた記録も残っていますよ」
下須川の顔が歪んだ。
これまで自分勝手に女を扱い、金と権力で何でも解決してきた男の表情が、初めて本気の恐怖に染まっていく。
「待て……待ってくれ……俺はただ……」
手錠がカチリと音を立てて、下須川の両手首にかけられた。
事務所の外では、パトカーの赤い回転灯が静かに回っていた。
近所の住民が遠巻きに様子を窺っている。
下須川は刑事に腕を掴まれながら、事務所から連れ出された。
夜風が冷たく、彼の派手なアロハシャツをはためかせる。
(……終わった……)
これまで「顔が利く」と豪語してきた自分が、
未成年の性的画像を扱った罪で、警察に連行される。
明日には実名報道され、業界からも完全に締め出されるだろう。
下須川はパトカーの後部座席に押し込まれながら、
初めて、自分のしたことがどれだけ重いものだったのかを、
遅すぎるほどに思い知らされていた。




