第32話 三姉妹・怒る
逆上した凪沙が葵に向かって飛びかかろうとするのを見て、俺の体は反射的に動いていた。
普段なら「チビの俺が庇ったところで……」と一瞬でも迷うところだった。
でも、そんな考えが頭をよぎる隙すらなかった。
ただ、凪沙の狂った目と伸ばされた爪が葵に向かうのを見て、体が勝手に前に飛び出していた。
次の瞬間、暴れ狂う凪沙の爪が俺の左頬を深く切り裂いた。
「っ……ぐあっ!」
熱い痛みが顔面を突き抜け、肉が裂ける感触がはっきりと伝わってきた。
血が一気に噴き出し、頬を伝って顎から滴り落ちる。
温かく粘つく血の感触が、首筋を濡らしていく。
痛みは焼けるように激しく、視界が一瞬白く霞んだ。
血が目に入ってくる。目蓋の近くを切ったらしい。
しかし、それよりも早く——
俺の背後にいた三つの巨大な影が、一瞬で爆発するように動き出した。
一番速かったのは葵だった。
「——!」
葵の長い腕が蛇のように伸び、凪沙の細い首を容赦なく鷲掴みにした。
合気道で鍛え抜かれた膂力で、俺と変わらない小さな体が軽々と宙に浮かび上がる。
いくら華奢な女の体とは言え、人間一人の体重だ。
それを軽々と持ち上げる膂力は、凄まじいのひと言だった。
続けて澪と雛が、凪沙の腕を掴んで磔のように持ち上げる。
身長194㎝の巨体が三人。凄まじい圧力に圧倒されて、誰も止めに入ることすらできない。
「がっ……! あがっ……! ぐえっ……!」
凪沙の足がバタバタと無意味に宙を掻いた。
顔が真っ赤から紫色に変わり、目が飛び出さんばかりに見開かれる。
苦しげな喘ぎ声が喉の奥から漏れ、涎が糸を引いて垂れ落ちた。
「葵、澪、雛ッ、落ち着け! 殺したらダメだ!」
俺は血まみれの額を押さえながら、慌てて首を絞めている葵の腕にしがみつき、必死に引き剥がそうとした。
血が指の間から溢れ、制服のシャツを真っ赤に染めていくのも構わず。
だが、三人の目は完全に据わっていた。
普段の優しくて包み込むような笑顔も、無表情の裏に隠れた温かい感情も、天真爛漫な笑顔も……。
跡形もなく冷たく凍りついた能面のような表情がそこにあった。
その瞳の奥に、燃え盛るような怒りが、煮えたぎるマグマのように渦巻いているのがはっきりわかった。
「ダメだよ、悠真くん……。
この女は殺さなくっちゃ。
悠真くんを傷つけた報いを受けないと……絶対に、絶対にダメなんだよ……」
声はいつも通り柔らかかった。
しかし、その柔らかさの中に、底知れぬ冷たさと狂気が混じっていた。
葵の指が、さらに強く凪沙の首を締め上げる。
「……殺す」
澪は無表情のまま、しかしその声は震えていた。
普段はほとんど感情を見せない彼女の肩が、小刻みに震え、凪沙を押さえつけている指が白くなるほど握りしめられている。
そして、雛が大声で叫んだ。
「悠真の顔、血が出てるよぉっ!!
悠真を傷つけるなんて、絶対に許さないよぉぉっ!!」
雛の声は教室中に響き渡り、元気いっぱいの明るさが完全に崩れていた。
目が涙でいっぱいになり、顔を真っ赤にして、凪沙の腕を握りしめながら叫ぶ。
普段は天真爛漫で笑顔ばかりの雛が、こんなに取り乱して怒りを爆発させる姿は、初めて見た。
俺は頬から滴る血を拭いもせずに、三人を止めに入る。
「頼む葵、澪、雛っ。俺は皆を失いたくない。俺のそばにいてくれ……俺は大切なお前達を殺人犯になんてしたくない」
俺は己の小さな体を呪いながら、頸動脈を締め付けている葵の腕を掴んで叫んだ。
その言葉にハッとした三人の指が、ようやくゆっくりと力を抜いた。
凪沙の体が、ずるりと床に崩れ落ちる。
凪沙が「げほっ……! ごほっ……! カハッ……あ」と激しく咳き込み、涎を垂らしながら苦しげに息を吸う。
葵はまだ凪沙の首を掴んだ姿勢のまま、ゆっくりと俺の方を向いた。
その表情は、まだ完全に怒りが収まっていない。
しかし、俺の言葉が彼女の心に届いたことは確かだった。
「悠真くんが……傷ついたのを見て……
頭の中が真っ白になって……
この女を……この女だけは……許せないって……」
葵の声が、わずかに震えていた。
いつも包み込むような優しい葵が、初めて見せる本気の怒り。
その大きさに、俺は胸の奥が熱くなった。
「分かってる。ありがとう。その気持ちだけで十分だよ。でも頼むよ……葵、澪、雛……俺のお嫁さんになってくれるんだろ。そばにいてくれよ」
教室は、完全な静寂に包まれていた。
三姉妹の怒り——
特に葵の狂気的な怒り、澪の静かで底知れぬ激情、雛の爆発的な悲しみと怒り——
それらは、どれも俺への想いが深すぎるからこそ生まれていた。
血の滴る頬の痛みさえ、今は少しだけ温かく感じられた。
(……俺は、こんなにも大切にされているんだな)
「ごめんけど、凪沙を保健室に連れて行ってくれないか。いや、病院に運んだほうがいいか。救急車を呼んでくれ。あと、誰か先生を呼んできて。俺が説明する」
俺がそう言うと、近くにいた女子生徒が慌てて頷いた。
「え、でも高見沢君の血も凄いよ……! 頬が真っ赤になってる……」
「ああ、俺のは平気。そんなに痛くないから」
本当はかなり痛かった。熱い痛みが頬の奥まで響き、血が止まらずにシャツの襟をべっとりと濡らしている。
片目は開かなくなっていた。
でも、今はそんなことを言っている場合じゃなかった。
女子生徒が何人かで凪沙を抱え上げ、よろよろと教室から連れ出していく。
凪沙はまだ息を荒げ、目が虚ろだったが、抵抗する力はもう残っていなかった。
どうやら首の骨は折れていないようだ。葵の理性が僅かに残っていたのだろう。
葵が本気を出したら、人間の骨くらいへし折れそうだしな。
だけど理性を失った状態でのことだから、病院で検査を受けたほうがいいかもしれない。
俺はその場に残ろうと足を踏み出した瞬間——
「ダメだよ悠真くん! 悠真くんこそ保健室に行かなくちゃ!」
葵の声が、普段の柔らかさとは全く違う、強い調子で響いた。
彼女の目にはまだ怒りの残り火がくすぶっていて、俺の傷を見ただけで唇を震わせている。
「……ゆーま、無理。ダメ」
澪が俺の左腕を強く掴んだ。
無表情のまま、しかし指先に力がこもっていて、離す気配が全くない。
彼女の瞳はいつもより暗く、俺の頬から滴る血をじっと見つめ、静かに、でも激しく怒りを湛えていた。
「そうだよ悠真! 傷が化膿したら大変だよー!
血がこんなに……悠真の大事な顔が……! 目が見えなくなっちゃうよー!」
雛は目に涙をいっぱい溜め、俺の右腕にぎゅっとしがみついてきた。
元気いっぱいの声が震え、胸が大きく上下している。
普段は明るく笑っている雛が、こんなに取り乱して泣きそうな顔をしているのが、胸に刺さった。
三姉妹が俺を囲むように立ち、完全に動きを封じていた。
194cmの長身が三方向から迫ってくる圧迫感に、俺は思わず後ずさりそうになった。
「みんな……俺は本当に大丈夫だって」
「大丈夫じゃないよ……!」
葵が俺の頬にそっと指を近づけ、傷口を見て息を飲んだ。
その指先がわずかに震えている。
「悠真くんの血が……こんなにたくさん……
私が守れなかったせいだよ……ごめんね……ごめんね……」
葵の声が、徐々に嗚咽に変わりかける。
いつも俺を優しく包み込む葵が、こんなに取り乱している姿は珍しかった。
その瞳には、怒りと後悔と、俺への深い心配が渦巻いていた。
澪は無言のまま、俺の左腕を抱きしめ、自分の胸に押し当てるようにした。
体温が伝わってくる。
彼女の心臓の鼓動が、普段よりずっと速く、激しく鳴っているのがわかった。
雛は俺の右腕に顔を埋め、涙声で訴えてくる。
「悠真の血……止まらないよ……
雛、怖かった……悠真が傷つけられるの、すごく怖かったよぉ……
もう、絶対に離さないから……!」
三人の温もりが、俺の体を包み込む。
血の痛みよりも、彼女たちの想いの重さと熱さが、胸の奥を強く締め付けた。
俺は小さく息を吐き、ようやく微笑もうとした。
「……わかったよ。
みんなと一緒に保健室に行く。
でも、先生を呼ぶのも忘れずに……」
三姉妹はようやく少しだけ力を緩め、しかし俺の腕を離そうとはしなかった。
葵が俺の傷口をハンカチで優しく押さえ、澪が無言で俺の体を支え、雛が涙を拭いながら俺の横にぴったりと寄り添う。
教室のざわめきが遠くに聞こえる中、俺は三姉妹に囲まれながら、ゆっくりと保健室へと向かった。
頬の傷は熱く疼いていたが、
三人の想いが、それを優しく、しかし確かに和らげてくれていた。
(やっぱり、こいつらが一緒じゃないとダメだな、俺は)
その実感が、痛み以上に胸を熱くした。




