第31話 自滅していく女
【凪沙 視点】
教室の空気が一瞬で腐ったように重くなった瞬間、私の胃袋がぐちゃぐちゃにねじれて、酸っぱい胃液が喉の奥まで逆流してきた。
吐き気が止まらない。
口の中に苦い味が広がって、唾を飲み込むのも嫌になる。
冷や汗が全身から噴き出して、制服のブラウスが背中にべっとりと張り付き、じっとりと濡れている。
膝がガクガク笑って、立っているのもやっとだ。
尿意まで込み上げてきて、トイレに駆け込みたい衝動を必死に堪えている。
(……は? なんで……今……? ふざけんなよ……ふざけんなよ……!)
頭の中で血が一気に下がっていく感覚が、はっきりわかった。
視界がチカチカして、クラスの顔がみんな歪んで見える。
スマホの通知音が、まだ耳の奥でガンガン響いている。
あのURL……私の裏垢、私が吐き捨てた本音、全部、全部、晒されてる。
私は慌てて笑顔を作ろうとしたが、頰の筋肉が引きつって、うまく動かない。
(やばい……やばいやばいやばいやばい……
このままじゃ、私の全部が終わる……一生、笑い者だ……)
「ち、違うの! これは全部……誰かが悪意で作った偽物よ!
私、そんなアカウント持ってない! 信じて……みんな!」
声が裏返ってる。
自分で聞いてて情けなくて、腹の底から自己嫌悪がどろどろと湧き上がる。
でも、止まらない。
止まったら、本当に終わりだから。
クラスメイトの目が、針みたいに刺さってくる。
その一つ一つが、私のプライドをズタズタに切り裂いていく。
(あんたたちに……何がわかるってのよ……
私がずっと上から見下してたクソ貧乏共が……今、私を裁く側に回ってるなんて……
死ねばいいのに……みんな死ねばいいのに……!)
「誤解よ! 私はただ……悠真が好きで……
あの言葉は……冗談だったの! 本気じゃなかったんだよ!」
本心じゃない。
全部、嘘っぱち。
本当は悠真なんて、ただの便利な財布だった。
小遣い稼ぎの道具。
でも今は、それが唯一の命綱。
「好きだった」って叫べば、少しでも同情を買えるかもしれない。
プライド? そんなもん、全部捨ててやる。
今は生き残ることしか頭にない。
「クズじゃん……」
女子の一人が冷たく言い放った瞬間、私は胸の奥で毒を吐いた。
(あんたに何がわかるのよ……
私はただ、下須川に体を売られる前に、なんとか悠真を掴み直さなきゃって思っただけ……!
セックスなんて、肉の擦り合いじゃん……
それでも、悠真を失うよりはマシ……!)
涙が勝手に溢れてきた。
これは演技じゃない。
本物の、底なしの恐怖だった。
動画がばらまかれたら、私はもうこの学園にいられない。
いや、日本中に私の裸と顔と名前が広がって、永久に笑い者になる。
想像しただけで、胃が酸っぱい液体でいっぱいになる。
本当に吐きそう。
「それは……ストレス発散で……本気じゃなかったの!
みんなのことは本当に好きだったよ!
悠真くんのことだって、心から好きだったんだから……
お願い、信じて! 私は悪くないの!」
心の奥底で、もう一人の私が嘲笑っていた。
(悪くない? 笑わせんなよ……
全部計算ずくだったのに……
悠真をATM扱いして、瑛斗と浮かれてた私が……
今更アイツがコロッと戻ってくると思ってたなんて……馬鹿すぎる……私、ほんと馬鹿すぎる……最低だ……)
クラスメイトの罵声が雪崩のように降り注ぐ。
そのたびに、私の胸の奥で何かが粉々に砕けていく。
悠真の冷たい目。
三姉妹の静かな、でも容赦ない視線。
すべてが、私を「負け犬」「クズ女」「最低の女」として見下ろしている。
プライドが、ズタズタに引き裂かれる音が、はっきり聞こえた。
(……もう、ダメかも……
でも、まだ……まだ諦めない……
絶対に、悠真を私のものにしてみせる……たとえ動画がネット中にばらまかれても……私は、絶対に、絶対に負けない……!
生きてやる……這いずってでも……!)
涙を拭いながら、私は最後の笑顔を無理やり浮かべた。
でも、それはもう、完璧な仮面ではなかった。
ただの、崩れかけた、醜く歪んだ、惨めな女の顔だった。
一体誰だ……。
誰がこんな汚い真似をしやがった?
私の裏垢は鍵付きだ。フォロワーは一人一人厳選して、絶対に漏れないようにしていた。
それなのに、ここまで完璧に特定されて、全ての投稿が揃えられているなんて……ただの偶然なんかじゃない。
明確な意志が、明確な悪意が働いているとしか思えなかった。
(……誰だ……一体誰が……私をここまで……!)
悠真である筈がない。アイツはこんな悪質なことはしない。
ある意味で、それは信用してる。
瑛斗でもない。アレはそんなに頭が良くない。
頭の中で血が沸騰するような怒りと、底知れぬ恐怖が同時に渦巻いていた。
息が荒くなり、指先が小刻みに震える。
喉がカラカラに乾いて、舌が上手く動かない。
「……」
その瞬間、長女の葵と目が合う。
葵……。
三姉妹の中で、一番油断ならない相手。
澪のように無表情で何を考えているかわからないタイプではなく、いつも優しい笑顔の裏に、冷たい計算を隠している女。
あの柔らかい微笑みが、実は一番タチが悪い。
私と葵の視線が、ぴたりと交差した。
「……ふっ」
次の瞬間、葵の目が細くなり、口角がゆっくりと三日月のように歪んだ。
それは、はっきりとした……嘲りだった。
「お前……お前かああああああああああああああああああああ!!」
気がついたときには、私はすでに葵に向かって全力で飛び出していた。
理性など、完全に吹き飛んでいた。
194cmの巨体に対して、私は156cm。
普段の私なら絶対にしない、馬鹿げた選択だった。
でも、頭の中が真っ赤に煮えたぎって、そんな判断すらできなかった。
「危ない、葵っ!」
葵に飛びかかろうとした私の前に、悠真が素早く立ち塞がった。
「邪魔すんなチビスケ!! その女、殺してやる!!」
こいつ、ひょろいくせになんて力だ。流石は男の子ってか?
ふざけんな! チビのくせに! ボンボンのくせに!
逆上した私は腕を掴んでいる悠真を振り払おうと、思い切り腕を振った。
ガッ!!
「ぐっ!?」
「……あっ」
爪の先が、悠真の目蓋と頬を深く切り裂いた。
鮮血が飛び散り、斜めに長い傷がくっきりと刻まれる。
その瞬間、熱い血の感触が指先に伝わって、私は一気に冷静さを取り戻した。
「ゆ、悠真……あの、これは」
悠真の顔から血が滴り落ちるのを見て、胸の奥が冷たく凍りついた。
「落ち着けよ、凪沙。そんなことしても……」
「ゆう……!?」
その直後、私の視界は突然、巨大な影に覆われた。
三体の長身が一瞬で迫り、私の体が軽々と持ち上げられる浮遊感に襲われた。
「ガッ!?」
次の瞬間、葵の巨大な手に顔面を鷲掴みにされ、壁に叩きつけられていた。
「コロス……」
「がうっ……ごっ、おおっ……!」
息ができない。
葵の指が私の頰と顎に深く食い込み、気道を圧迫する。
普段のほんわかした癒やし系の顔は完全に消え、冷たく無機質な能面のような表情で、私を睨み降ろしていた。
その目は、まるで虫でも見るかのように冷ややかだった。
「コロス……コロス……コロス……」
「抹殺……」
「許さない……」
私の体は澪と雛の二人に腕を掴まれ、磔にされたように壁に叩き付けられる。
体が宙に浮いて足をバタバタと暴れさせるが、凄まじい力に抑え込まれて身動きが取れずに呼吸が止まった。
(こ……殺される……)
恐怖だけが、胸の奥を真っ白に染め上げた。
これまで感じたことのない、純粋で生々しい死の恐怖。
メリメリと首にめり込んでいく指の感触が、段々と意識を遠のかせていく。
膀胱が勝手に緩みそうになり、足の間がじんわりと熱くなるのを感じて、さらに羞恥と絶望が爆発した。
私はただ、葵の手に掴まれたまま、ぶるぶると震えることしかできなかった。




