第25話 決壊の予感
【凪沙 視点】
昼休み終了のチャイムが鳴り響く中、私は校舎裏からゆっくりと歩き出していた。
足取りは重く、頭の中はまだ瑛斗の言葉で埋め尽くされていた。
「動画を配信する」——その脅しは、ただの口先だけではなかった。
下須川という男の名前が出た瞬間、私は本能的に理解した。
これはもう、いつもの瑛斗のわがままではない。
本気で私を「商品」として扱おうとしている。
私は校舎の角を曲がりながら、唇を強く噛んだ。
(……プライドだけじゃ、守れないものもあるのか)
これまで私は「常に得する側にいる」と信じて生きてきた。悠真を貢ぎ捨てた時も、瑛斗を選んだ時も、全部自分の判断だったはずだ。
なのに今、瑛斗の掌の上で転がされている自分が、ひどく滑稽に思えた。
教室に戻る途中、遠くの廊下で悠真と三姉妹の姿が目に入った。
その甘ったるい光景が、胸に鋭く突き刺さる。
(あんなチビが……三姉妹に囲まれて笑ってるなんて)
私は拳を握りしめ、視線を逸らした。
私は気持ち悪くなってトイレに駆け込み、鏡の前に立って自分の顔を見た。
(誰よ……このブスは……)
酷い顔をしていた。悠真と三姉妹がイチャイチャしていると、どうしてだか無性に腹が立った。
胸の奥で、苛立ちと悔しさと、どこか自分自身への嫌悪感がぐるぐると渦を巻いている。
瑛斗の言葉が、まだ耳に残っていた。
――「動画をばら撒く」
あの男は、私を「便利な財布」としてしか見ていない。
私はそんな男に、これまでどれだけの金を注ぎ込んできたのだろう。
(悠真を切ったのは、完全に失敗だった。切るべきは瑛斗の方だったんだ……調子に乗ってバカなことを)
悠真……少なくともアイツは、私に誠実だった。
相手の欲しているものを察して、先回りして私をもてなしてくれる。
自分の小遣いじゃいけないような場所にも連れてってもらったし、ウブなりに必死で私のために考えてエスコートもしてくれた。
私はプライドの高い女だ。
男に媚びて生きるつもりなど、最初からなかった。
だからこそ、瑛斗の「泣きつけ」という指示に、強い抵抗を感じる。
最初に思いついたのは私なのだ。
本気で頭を下げて金をせびるなんて、私のスタイルじゃない。
相手を騙して金を引き出すことはしても、本気で媚びるなんてあってはならない。
でも、現実は冷たい。
動画の存在、下須川という男の影——逃げ場がどんどん狭まっている。
(私は……本当に、こんなところで詰むのか?)
悔しさの底に、微かな恐怖が混じっている。
下須川という悪い大人。そいつが私を絡め取ろうとしている。
私は一生そいつらに女として搾取され続ける。
それだけは絶対にごめんだ。
私は奪う側だ。支配する側。男を手の平で転がす側の人間なんだ。
瑛斗なんかに屈してたまるか。
私は鏡に向かって、いつもの清楚な笑顔を作ってみた。
でも、その笑顔は、今日だけは少し歪んで見えた。
(もう少し……もう少しだけ時間を稼げば、何か方法が見つかるはず)
私はスマホを握りしめ、深く息を吐いた。
瑛斗の次のメッセージが、画面に表示されていた。
【今夜8時、いつものスタジオに来い。
下須川さんと顔合わせだ。来ねぇとゲームオーバーだからな】
私は唇を強く噛んだ。
(絶対に……屈しない)
でも、心の奥底では、初めて本気の危機感が芽生え始めていた。
スタジオ。
瑛斗がバンドの練習で使っている、あの薄暗い場所。
私はスマホを握りしめ、ため息を漏らした。
夜8時少し前。
私は制服のまま、瑛斗が指定したスタジオに向かっていた。
瑛斗の脅し、下須川という男の影、動画の存在——すべてが私の首を締め上げている。
スタジオのドアを開けると、煙草の煙と低い男たちの笑い声が一気に押し寄せてきた。
瑛斗と、下須川がソファに座っていた。
下須川は私を見るなり、ゆっくりと口元を歪めた。
「ほう……これが例の凪沙ちゃんか。
写真よりずっといいじゃねえか」
瑛斗が媚びた笑顔で下須川に頭を下げた。
「下須川さん、今日もよろしくお願いするッス!」
下須川は私を上から下まで舐めるように眺め、満足げに頷いた。
「……なるほどね。
清楚ぶってる顔立ちに、意外と肉付きがいい体。
これなら、スポンサー連中は喜ぶだろう」
私は静かに息を吸い、声を低く抑えた。
「私は、そんな話に乗る気はないわ」
下須川が低く笑った。
「気丈だな。
でもな、女がプライドだけで生きていけるほど、この世界は甘くないぜ?」
瑛斗がスマホを操作しながら、冷たい目で私を見た。
「いいか、凪沙。
お前と俺がヤッた時の動画、もう下須川さんの手元にある。
お前が素直に従わなければ、分かるな?」
私はその言葉を聞きながら、唇を噛んで、はっきりと言った。
「バラまけばいい。
その代わり、あなたたちのバンドの裏側も全部、私の口から流すわ。
ノルマの水増し、打ち上げの女遊び、下須川に女を斡旋して金をもらってることもね」
瑛斗の顔が一瞬、引きつった。
下須川が興味深そうに目を細めた。
「ほう……面白い女だ。想像以上に肝が据わっているじゃないか」
瑛斗は慌てて下須川に頭を下げた。
「すみません、下須川さん。
こいつ、ちょっと頭が固いんで……」
私は二人を冷ややかに見据えた。
「頭が固いんじゃないわ。
ただ、あなたたちに媚びる気がないだけ」
部屋の空気が一瞬、重くなった。
下須川がゆっくりと立ち上がり、私に近づいてきた。
「プライドが高いのは結構だがな……
女が一人で生きていくのは、想像以上に厳しいぞ?」
私は後ずさりせずに、その目をまっすぐに見返した。
「厳しいのは分かっているわ。
でも、あんた達みたいな下衆な男達に屈して生きるよりは、よほどマシよ」
瑛斗が苛立った声で言った。
「お前……本気で俺を敵に回す気か?」
「好きに解釈すればいい。もうあんたの言いなりにはならない」
「あ、おいっ」
追っ手は来なかった。最悪のあの場で輪姦される事態も覚悟していたが、下須川はやはり私を「商品」として見ている。
あれは、女をじっくりと壊して楽しむタイプだ。
瑛斗みたいな短絡的な猿野郎とは違うタイプのワルだ。
しかし、時間は明らかに味方していなかった。
その夜、私は一人で部屋に戻り、ベッドに横になった。
天井を見つめながら、今日の記憶が頭の中でリプレイされる。
瑛斗の冷たい脅し、下須川の舐め回すような視線、そして決定的な弱みであるあの動画。
(このままじゃ、本当に一生搾取される側に回る……)
これまで私は男を翻弄する側に立つことに誇りを持ってきた。
でも今日、初めて自分が「商品」として扱われる現実を、骨の髄まで突きつけられた。
プライドだけで生きていけるほど、世界は甘くない。
それはもう、十分に理解した。
私はスマホを握りしめ、ブロックされたはずの悠真の名前を画面に表示させた。
(……もう、綺麗事は言ってられない)
アイツなら、本気で私が困っていると分かれば、決して放置はできないはず。
そういうお人好しの男なんだ。
そうだ……昔のように甘い声で寄り添ってやろう。
なんならそのままホテルに行って、ヤラせてやろう。
既成事実さえ作ってしまえばこっちのものだ。
私のテクで籠絡してやれば、いくらアイツでも逆らえなくなる。
「ふふ……悠真……。待たせちゃってごめんね。明日から、《《あなたの彼女に戻って》》あげる」
私はスマホを取り出し、瑛斗にコールする。
奴はすぐに電話に出た。
「良い考えが浮かんだの。ちょっと協力してくれない?」
※後書き※
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