第16話 澪の日 ~約束のご褒美~
朝の白峰家で朝食を終えた後、澪が珍しく少しだけ声に力を込めて言った。
「……今日は、練習試合がある……ゆーまに、見ててほしい」
無表情のまま、でも耳の先がほんのり赤い。
澪がそんな風に張り切る姿は珍しく、俺は思わずフォークを止めた。
「分かった。澪の活躍を一番近くで見させてもらうよ」
俺が素直に答えると、澪は少しだけ視線を落とし、静かに続けた。
「……勝ったら、ご褒美、欲しい」
「ご褒美? もちろんいいぞ。何がほしい?」
すると、何故だか澪がペロリと舌を舐めずるような仕草をした。
それはほんの一瞬で隠れてしまったが、何故だか獰猛な肉食獣を彷彿とさせた。
ゾクリとした俺は思わず身を引いた。
「なんだかちょっと怖くなってきたな……」
「……大丈夫。無茶なお願いはしない……まだ」
「いずれするつもり!? 怖いから勘弁してくれ」
「嘘……。でも、ゆーまが応援してくれたら、今までで一番良い試合ができる気がする」
その言葉は短かったが、澪の声にはいつもより少し熱がこもっていた。
無表情のまま、でも目がわずかに輝いているように見えた。
俺は少し照れながら、笑って答えた。
「分かった。飛びっきりのご褒美をやるから、頑張ってくれ」
すると、いつも無表情な澪が、微かに口元を吊り上げて微笑んだ。
まるで天使の微笑みだった。可愛い。
俺の胸が、ドクンと大きく鳴った。
朝食後、俺たちは一緒に登校の準備を始めた。
家を出て、少し歩き始めると、澪は何故かついてこない。
振り返ると、澪は数歩後ろで立ち止まり、視線を少し下に落としていた。
「どうした?」
俺が声をかけると、澪は消え入るような小さな声で呟いた。
「……手……繋ぎたい」
その言葉は、ほとんど息のように小さかった。
いつもは無言で腕を組んだりしてくるのに、二人きりだとこんなに奥ゆかしい……。
そのギャップが凄くて、俺の胸がトクンと強く鳴った。
俺は微笑みながら左手を差し出した。
「いいよ」
澪は一瞬だけ目を細め、無言でその手に自分の手を重ねてきた。
大きな手が、意外と柔らかくて温かい。
指がそっと絡み合い、澪の体温がじんわりと伝わってくる。
(ギャップが凄いな……いつもは普通に物静かって感じだけど、なんだかモジモジしてて可愛すぎんか)
澪の魅力が、改めて胸に染みてくる。
クールで無表情な外見とは裏腹に、こんな風に素直に甘えてくる姿が、たまらなく可愛い。
登校中、澪はほとんど言葉を発さなかった。
ただ、繋いだ手を少しだけ強く握り、時折俺の横顔を静かに見つめてくる。
その視線は穏やかで、でも熱を帯びていて、俺の心臓を優しく刺激した。
学園に着くと、澪はすぐにバレー部の朝練があると言って体育館へ向かった。
「練習、見てて」
短い言葉だったが、俺は素直に体育館のベンチに座って見学することにした。
澪はコートに立った瞬間、別人になった。
ジャンプ力と瞬発力が抜群のエースアタッカー。
長い黒髪をポニーテールにまとめ、ネット際に立つ姿はクールで、力強い。
スパイクを決めるたび、体育館に乾いた音が響く。
俺はベンチからその姿をじっと見つめていた。
練習が終わった後、澪は汗だくのまま俺のところに来た。
「……見てた?」
無表情のまま、でも息が少し荒い。
額に浮かんだ汗が、朝の光に光っている。
「うん、すごかったよ。
澪のジャンプ、ほんと高くて迫力あった」
澪の耳がわずかに赤くなった。
「……ゆーま、褒めてくれると……嬉しい」
短い言葉だったが、その声には普段より少し甘い響きがあった。
体育館の隅で、澪は俺の隣に座り、静かに体を寄せてきた。
「……汗、臭う?」
「いや、大丈夫。むしろ、いい匂いだよ」
澪の無表情が一瞬だけ崩れ、唇の端が小さく上がった。
「……ゆーま、命令して」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
「命令……?」
「……今日、澪はゆーまの言うことを聞く。
だから、命令して」
澪の声は低く、でもどこか期待に満ちていた。
無表情のまま、しかし目が少し潤んでいるように見えた。
俺は少し声を低くして、試すように言ってみた。
「……今日は俺の隣で、じっと俺の顔を見てろ。
俺がいいと言うまで、目を逸らすな」
澪の体が小さく震えた。
「……はい」
澪は無言で俺の隣に座ったまま、俺の顔をじっと見つめ続けた。
無表情のまま、でも瞳が熱を帯び、息が少しずつ荒くなっていく。
見つめ合う2人。
段々と息が荒くなってくる澪。
「我慢……無理」
澪の声が、ほとんど息のように小さく漏れた。
「え? うわっ、ちょ、ちょっと……」
俺が驚いて体を引こうとしたその時、澪がゆっくりと俺の方に身を乗り出してきた。
無表情の顔が近づき、熱い息が俺の唇のすぐ近くまで迫る。
「ゆーま、唇セクシー……。ゆーまが悪い……こんな、無防備……駄目」
澪の指が、俺の下唇をそっとなぞった。
その感触に、俺の体がびくんと震える。
指の先が優しく、でも確実に唇の輪郭をなぞり、俺を上から押さえつけるように体重をかけてくる。
(くっ、食われるっ!)
いよいよ唇が触れようとしたギリギリのところで、体育館の入り口の方から複数の足音と声が聞こえてきた。
「澪せんぱーい! 次の練習の準備……」
他のバレー部員たちが、ボールやネットを持って入ってきた。
すげぇ……まるでお約束みたいだ。
俺はラノベの主人公になったのかもしれぬ。
澪の体がぴたりと止まり、俺は慌てて体を離した。
澪も素早く距離を取り、無表情に戻ったが、耳の先が真っ赤になっているのがはっきり分かった。
部員たちが俺たちを見て、少し驚いた顔をした。
「え……高見沢……先輩? 澪先輩と一緒にいたの?」
「なんか、雰囲気……」
俺は慌てて立ち上がり、適当にごまかした。
「あ、いや……ちょっと見学してただけだよ」
澪は無言で部員の方に向き直り、いつものクールな声で言った。
「……練習、再開」
部員たちが「はい!」と返事をして動き始める中、澪は一瞬だけ俺の方を振り返った。
無表情のまま、でも瞳にわずかな熱が残っている。
俺は胸の鼓動がまだ収まらないまま、体育館のベンチに戻った。
(……危なかった)
心の中でそう呟きながら、俺は澪の背中を見つめた。
無表情でコートに立つ澪の姿は、さっきまでの甘い雰囲気とは別人のようだった。
でも、あの瞬間に見せた「我慢……無理」という言葉と、指で唇をなぞられた感触は、俺の胸に強く刻み込まれていた。
練習が再開され、澪が再びスパイクを決めるたび、俺はさっきの出来事を思い出して顔が熱くなった。
この日替わり恋人生活は、予想以上に甘く、
そして予想以上に危ういものになりつつあった。




