EP 5
虹色の光が収まり、俺の手の中に残ったのは、青と赤のラベルが貼られた一本の細長い金属缶だった。
ノズルの先には細いストローがついており、そこには見覚えのある文字でこう記されている。
『超強力・浸透潤滑スプレー(プロ仕様)』
「……なんだ、それは。また地球の『日用品』か」
魔人ギアンの機械の複眼が、怪しく明滅した。
地下水道で『瞬間接着剤』に煮え湯を飲まされた彼は、俺が手にした小さな缶を警戒しつつも、そのあまりの「無機質さ」に冷酷な嘲笑を漏らす。
「滑りを良くする油……。クックック、そんなもので、この数十トンの鋼鉄の突進が止まるとでも? 摩擦が減れば、むしろ勢いが増すだけだとは思いませんか!」
「ああ、その通りだよギアン。勢いは増すだろうね。……『制御不能』なまでにな!」
俺はボトルのキャップを投げ捨て、ストローの先を地面に向けた。
「ルナ! 今すぐ僕の足元から、あいつらの突進ルートに向けて『氷の床』を展開して! できるだけ平坦に!」
「えっ? 氷魔法ね、任せて! 『白銀の氷結路』!」
ルナが杖を振ると、突進してくる死甲虫型の足元の地面が、一瞬にしてツルツルの氷に覆われた。
だが、死甲虫たちはその巨体とパワーで、氷を砕きながら強引に突き進んでくる。
「アレン君、氷だけじゃあいつらの重さは止まらないわ!」
「わかってる! だから、これを使うんだ! ルナ、風の魔法でこの霧を氷の上に薄く、均一に広げて!」
俺はスプレーのレバーを全力で押し下げた。
シュゥゥゥゥゥッ!! という小気味いい音と共に、独特の油の匂いが辺りに漂う。
「行っけぇぇぇぇぇッ!!」
ルナが放った微風に乗って、超強力な潤滑液のミストが、彼女が作り出した氷の床の上へとコーティングされていく。
地球の科学が産んだ、摩擦係数を極限まで下げる禁断のオイル。
それが魔法の氷の上に重なることで、そこにはこの世界の物理法則を超越した『完全摩擦ゼロ地帯』が完成した。
「ギギッ……!?」
異変はすぐに起きた。
猛スピードで突進していた先頭の死甲虫型が、氷とオイルの混合地帯に足を踏み入れた瞬間、その巨大な脚がバラバラな方向へと滑り出したのだ。
「ブ、ブモォォォォッ!?」
踏ん張りが一切利かない。
重ければ重いほど、そして勢いがあればあるほど、一度失った姿勢を立て直すことは不可能になる。
先頭の一体がまるで氷上のダンスを踊るように横転し、その背後にいた二体目、三体目が、回避できずに次々と衝突していく!
ドカァァァァァァァンッ!!
ズガァァァァァンッ!!
「な……ッ!? 私の死蟲機たちが、ただ滑って自滅しているだと!?」
ギアンが驚愕に声を荒らげる。
そう、こいつらの弱点は、その圧倒的な「質量」そのものだ。
一度滑り出せば、自らの重さが凶器となり、仲間を押し潰し、装甲を砕き合うデッドコースターへと変わる。
「今だ、イグニス! キャルル! 滑って体勢を崩した奴らのお腹を狙って!!」
「ガハハハハッ!! 面白ぇじゃねぇかアレン! 氷の上なら俺様の斧も、よく滑って『キレ』が増すぜぇぇっ!!」
イグニスがスケートのように氷上を滑りながら、遠心力を最大にまで乗せた斧を横薙ぎに一閃させた。
摩擦のない旋回。それはさながら、鋼鉄の竜巻!
「お腹は装甲が薄いわね! 月影流――『旋風・鐘打ち』ッ!!」
キャルルもまた、滑る床を逆手に取り、フィギュアスケートのジャンプのような高速回転から、ひっくり返った死甲虫の腹部へ音速の蹴りをブチ込んだ。
パリィィィィィィィンッ!!!
「ギ、ギギギィィィッ……!!」
魔法も物理も弾いた無敵の装甲が、自重による激突と、威力を倍加させた二人の追撃によって、次々と砕け散っていく。
「あ……あ……」
背後でその光景を見ていたレオンが、折れた剣を握りしめたまま、震える声で漏らした。
「セオリーじゃない……。こんな戦い方、どの教本にも載っていない……。だけど、なんて……なんて鮮やかなんだ……!」
エリートたちが「不可能」だと断じた壁を、13歳の少年が「スプレー一本」で滑り倒していく。
絶望に染まっていた森に、希望の、そして逆転の風が吹き抜けた。
「さあギアン! 接着剤の次は、油の味はどうだい!?」
俺は空になったスプレー缶を掲げ、機械の複眼を憎しみで燃やす道化師を指差した。




