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第四話 皇太子と豪商、情報屋の扱いで揉める。

九華大陸(ジウホワたいりく)には、金で買えないものが三つある。


失われた命。過ぎ去った時間。そして、沈夜黎(シェン・イエリー)の危機管理能力。


最後のひとつについて、天嵐国(ティエンランこく)の皇太子と大陸随一の豪商は、朝から深刻な意見の相違を抱えていた。


「夜黎(イエリー)を皇宮で保護する」


「監禁の間違いでは?」


「護衛だ!」


「あなたの護衛、先日その方に毒茶を出した刺客を取り逃がしましたよね」


沈雲舟(シェン・ユンジョウ)が優雅に扇子を開けば、蕭景琰(シャオ・ジンイエン)の眉間に深い皺が刻まれる。


黒蛇楼(ヘイシェーロウ)の二階。卓上には、前夜までに集められた密書と帳簿が広がっていた。


「……おれ、ここにいるんだけど」


当の沈夜黎(シェン・イエリー)は窓辺で茶を啜っている。


黒地に金糸の蛇紋を施した長衣は、椅子に組んだ脚の輪郭を艶やかに浮かび上がらせていた。

開いた襟元には白い鎖骨と蛇の刺青。左耳の長い十字架が揺れるたび、商人の視線がわずかに逸れる。


「夜黎(イエリー)。せめて襟を閉めろ」


「暑い」


「そういう問題ではない!」


「殿下、そこは同感です。交渉の妨げになります」


「雲舟(ユンジョウ)も暑いの?」


「あなたが原因です!」


林小鈴(リン・シャオリン)は帳簿を閉じた。


「お二人とも、楼主(ロウジュー)(店主)の服装より国家存亡を優先してください!」


正論だった。


*


発端は、柳紫苑(リウ・ズーユエン)が入手した密書だった。


禁術《九魂還天陣(ジウフンホワンティエンジェン)(九つの妖魂を用いて天の理を覆す陣)》。


九つの妖魂を奪い、神蛇の血を最後の供物とすることで、九国の霊脈を支配する。

その計画を進めているのが、皇太子の叔父である摂政王だった。


「皇宮内部にも協力者がいる。私が軍を動かすには、確実な証拠が必要だ」


蕭景琰(シャオ・ジンイエン)の声は重い。


叔父は幼い頃、剣の握り方を教えてくれた人物だった。

その男が国を裏切ったという事実は、皇太子としての責務だけでなく、家族としての記憶まで傷つける。


「証拠なら金の流れにあります」


沈雲舟(シェン・ユンジョウ)が帳簿を指で叩いた。


「白霊草(バイリンツァオ)(薬用霊草)と黒凝香(ヘイニンシャン)(霊力を封じる香)の取引。さらに九つの霊石が、摂政王府(ショージョンワンフー)へ運び込まれている」


「だからといって商路を封鎖すれば、無関係な民まで飢える」


「では、民が死ぬまで証拠を待てと?」


二人の視線が鋭く交わった。


どちらも間違ってはいない。


国を守る者と、商いで人々の暮らしを支える者。背負うものが違えば、正義の形も変わる。


「……んー」


沈夜黎(シェン・イエリー)が茶碗を置いた。


「全部止めなくていいんじゃない?」


「何?」


「偽物の霊石を流して、本物だけ回収する。運搬記録は残るから、景琰(ジンイエン)の証拠にもなるでしょ」


沈雲舟(シェン・ユンジョウ)が目を細めた。


「……偽装取引ですか」


「うん。雲舟(ユンジョウ)、得意そう」


「人聞きが悪いですね。得意ですが」


蕭景琰(シャオ・ジンイエン)は苦笑した。


「まったく、貴様は……」


互いに譲れなかった二人が、同じ帳簿へ身を寄せる。


その様子を見て、沈夜黎(シェン・イエリー)は満足そうに饅頭を齧った。


*


夕暮れ、白璃月(バイ・リーユエ)が古い巻物を抱えて現れた。


「阿黎(アーリー)(愛称)。お主に見せたいものがある」


千年前の友・蘇清音(スー・チンイン)が遺した記録だった。

そこには、神蛇の血を継ぐ一族について記されている。


《神蛇(シェンショー)(神聖な蛇)の末裔。その血は九つの霊脈を繋ぐ鍵となる》


沈夜黎(シェン・イエリー)の首筋で、蛇の刺青が淡く輝いた。


「……やはり、そうか」


白璃月(バイ・リーユエ)の声が震える。


「阿黎(アーリー)。お主こそ、禁術を完成させる最後の供物じゃ」


沈夜黎(シェン・イエリー)は少し考えた。


「……おれ、材料扱い?」


「命に関わる話じゃぞ!」


「じゃあ困るね。明日の朝ごはん、まだ食べてないし」


白璃月(バイ・リーユエ)は笑えなかった。


千年前、大切な友を失った。

ようやく新しい春を待とうと思えたのに、また同じ運命が目の前にある。


「……妾は、二度と失わぬと決めたのじゃ」


その手が、沈夜黎(シェン・イエリー)の袖を掴む。

彼は静かに微笑んだ。


「うん。知ってる」


その優しさが、今はひどく恐ろしかった。


*


夜更け。

黒蛇楼(ヘイシェーロウ)の三階で、沈夜黎(シェン・イエリー)は一通の密書を読んでいた。


摂政王府(ショージョンワンフー)から届いた、彼だけに宛てられた招待状。


『神蛇の末裔よ。来なければ、囚われた妖族と薬舗の娘を供物にする』


春彩堂(チュンツァイタン)で働いていた阿蘭(アーラン)。


その名を見た瞬間、金色の瞳から眠気が消えた。


沈夜黎(シェン・イエリー)は人の秘密を売る。

けれど、命だけは売らない。


「……めんどくさいなあ」


彼は机に向かい、筆を取った。


『小鈴(シャオリン)へ。ちょっと出かけてくる。茶代は払っておいたから、怒らないでね』


書き終えると、帳簿の最後の頁に銅貨を一枚挟んだ。

阿福(アーフー)から預かった、最初の依頼料だった。


本当は、依頼が終わるまで手放したくなかった。

けれど、帰れなかったときのために。


*


翌朝。

林小鈴(リン・シャオリン)は帳簿を開き、顔色を変えた。


「……嘘でしょう」


楼主(ロウジュー)が自分から茶代を払う。

それは、この世で最もあり得ない異変だった。


さらに銅貨一枚。

依頼料を大切にしまっていたはずの男が、それを残している。


「……馬鹿」


林小鈴(リン・シャオリン)は震える手で置き手紙を握り締めた。


「帰ってくる気がないなら、どうしてこんなもの残すんですか……!」


彼女は涙を拭うこともせず、伝令符を燃やした。


真っ先に現れたのは柳紫苑(リウ・ズーユエン)だった。


「阿黎(アーリー)が消えた?」


続いて、蕭景琰(シャオ・ジンイエン)と沈雲舟(シェン・ユンジョウ)。


白璃月(バイ・リーユエ)は九本の尾を広げ、静かに怒りを滲ませていた。


「……あの愚か者め」


沈雲舟(シェン・ユンジョウ)は扇子を閉じた。


「殿下。先ほどの件、全面的に協力いたします」


「奇遇だな。私も同じことを考えていた」


柳紫苑(リウ・ズーユエン)が短剣を抜く。


「昔からそう。あの子は誰かを守るとき、自分だけ数に入れない」


林小鈴(リン・シャオリン)は帳簿を抱き締めた。


「……絶対、連れ戻してください」


そして、涙の残る顔で言い放った。


「楼主(ロウジュー)には、まだ未払いの経費が山ほどあるんです!!」


沈雲舟(シェン・ユンジョウ)が頷く。


「ええ。逃がすわけにはいきませんね」


蕭景琰(シャオ・ジンイエン)は剣を取り、白璃月(バイ・リーユエ)は妖気を解き放った。


皇族、豪商、暗殺者、千年妖狐、そして一人の看板娘。


誰もが、自分の意思で動き始める。


天下を揺るがす戦いの理由は、ただひとつ。


――あのどうしようもなく優しい馬鹿を、家に帰すためだった。


黒蛇楼(ヘイシェーロウ)、本日も天下泰平とはいかず。




第四話・了。


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