第三話 千年妖狐、たった一言で泣かされる。
千年生きた妖狐にも、苦手なものはある。
天雷。封妖符。そして、沈夜黎の寝起き。
「阿黎(親しい相手への呼び名)! 妾の尻尾を返さぬか!」
自由都市・燈華の朝。黒蛇楼の三階で、白璃月は人生最大級の屈辱を味わっていた。
九尾のうち三本が、寝ぼけた沈夜黎に抱き枕として捕獲されている。
「……ふわふわ」
「感想は聞いておらぬ!」
「あと五本あるじゃん」
「そういう問題ではないわ!」
白璃月が身を捩ると、薄絹の寝衣が肩から滑った。
沈夜黎はようやく片目を開け、彼女の顔を見上げる。
「……璃月、綺麗だね」
「っ……!」
千年もの間、数え切れぬほど美貌を讃えられてきた。
それなのに、眠たげな金の瞳で何気なく告げられただけで、胸の奥が妙に騒ぐ。
「そ、そういうことは、もっと相応しい雰囲気で言うものじゃ!」
「じゃあ夜に言う?」
「なお悪いわ!」
階下から林小鈴の怒号が響いた。
「楼主(店主)! 妖狐様を口説くなら家賃を払ってからにしてください!」
「おれの家なのに?」
「あなたも経営費を払ってください!」
天下一の情報屋は、今日も家庭内で最弱だった。
*
昼下がり、黒蛇楼の二階には珍しく静寂が満ちていた。
柳紫苑が持ち帰った密書。その中央には、九つの円環を持つ禁術《九魂還天陣(九つの魂で天の理を覆す陣)》が描かれている。
白璃月は術式を覗き込み、息を止めた。
円環の内側に刻まれた、古い妖族の文字。
《蘇清音》
忘れようとしても、忘れられなかった名前だった。
「……なぜ、ここに」
千年前、人間と妖族が殺し合った戦乱の時代。蘇清音は、両者の争いを止めようとした人間の少女だった。
彼女は自らの命を捧げ、荒れ狂う霊脈を鎮めた。
白璃月は、その最期を看取っている。
「妾の……友じゃ」
いつもの艶やかな声が震えた。
「死してなお、あの子を利用するか」
室内の空気が凍りつく。
九本の尾が広がり、白い髪が妖気に逆立った。窓硝子に亀裂が走り、卓上の茶器が粉々に砕ける。
「摂政王府の者ども、一人残らず喰ろうてくれる!」
「璃月」
沈夜黎が、その手首を掴んだ。
黒地に金糸の刺繍を施した長衣。深い襟元から覗く蛇の刺青が、妖気に呼応するように淡く光っている。
「離せ。妾は本気じゃ」
「うん。知ってる」
「ならば止めるな!」
「止めてないよ」
白璃月が目を見開く。
沈夜黎は彼女の手を離し、静かに言った。
「でも、怒る前に知ってほしいことがある」
差し出されたのは、一通の古い手紙だった。
「……これは?」
「雲舟が古文書を集めてくれた。景琰は皇宮の記録を調べてる。紫苑も、これを書いた人の足取りを追ってくれた」
手紙には、見覚えのある筆跡があった。
《璃月へ》
震える指で封を解く。
『あなたはきっと怒るでしょう。私を置いていったと、泣くことさえ忘れて怒るのでしょう。
でも、お願い。
私の死を、あなたが生きる理由にしないで。
あなたには、まだ見ていない春があるのだから。』
白璃月の視界が滲んだ。
「……愚かな娘じゃ」
千年前と同じだった。
あの少女は、いつも自分の命を軽んじた。
妖狐である自分を恐れず、ただ一人の友として笑いかけてくれた。
だからこそ、失った痛みは千年経っても薄れなかった。
「妾は……忘れられぬのじゃ」
「忘れなくていいんじゃない」
沈夜黎は窓辺に腰掛け、頬杖をついた。
「大事だったんでしょ」
たった、それだけだった。
慰めでも説教でもない。
忘れろとも、前を向けとも言わない。
ただ、千年抱えてきた想いを、そのまま認めてくれた。
白璃月の頬を、涙が伝った。
「……お主は、残酷な男じゃな」
「え、おれ?」
「妾を泣かせるなど、千年早いわ」
「もう泣いてるけど」
「黙れ!」
白璃月は沈夜黎の胸元に額を押しつけた。
その身体を、彼は拒まなかった。
衣越しに伝わる温もりが、ひどく懐かしい。
「……阿黎」
「ん?」
「妾は、あの子を利用した者を許さぬ」
「うん」
「じゃが、復讐のために無関係な命まで奪うことは、せぬ」
沈夜黎は微笑んだ。
「そっか」
その笑顔があまりにも無防備で、白璃月は思わず彼の頬を両手で挟んだ。
「お主、妾が本気で誘惑したらどうするつもりじゃ?」
「んー……家賃、払ってくれる?」
「この男は本当に!!」
階下から林小鈴の声が飛ぶ。
「楼主! また茶器を割りましたね!?」
「璃月が割った」
「阿黎! そこは庇うところじゃろう!」
「弁償は共同責任です!!」
千年妖狐の涙は、どうやら安くないらしい。
*
夕暮れ、白璃月は再び密書を広げた。
九つの円環の中心には、蛇の紋章。
「……阿黎。首を見せよ」
「また?」
「よいから」
彼女が襟元をずらすと、白い首筋の蛇紋が金色に輝いた。
密書の紋章も、それに呼応する。
白璃月の背筋を、冷たいものが走った。
《九魂還天陣》。
九つの妖魂を集め、最後に神蛇の血を捧げることで完成する禁術。
そして、その神蛇の血を継ぐ者が、今まさに目の前にいる。
「……阿黎」
「なに?」
「お主、自分が何者か知っておるのか?」
沈夜黎は少し考え、眠たげに笑った。
「情報屋?」
白璃月は額を押さえた。
千年生きても、これほど厄介な男には出会ったことがない。
そして、これほど失いたくないと思った人間も。
「……妾は、もう二度と大切な者を失わぬ」
その誓いを聞いた沈夜黎は、不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、明日も一緒に朝ごはん食べよ」
白璃月は、泣き笑いのような顔になった。
「……ああ。約束じゃ」
黒蛇楼の窓に、夕陽が差し込む。
千年妖狐は、ようやく知った。
失った春は戻らない。
けれど、新しい春を待つことは、許されているのだと。
第三話・了。




