第二話 暗殺者の首領、今日も幼なじみに勝てない。
柳紫苑は、人生で三つのものを信用していない。
皇族の善意。商人の無償奉仕。そして、沈夜黎の「大丈夫」。
最後のひとつに至っては、信用した結果、過去に七度ほど死にかけた。
「阿黎(愛称)。あんた、今度は何を拾ったの?」
自由都市・燈華の裏通り。薬舗・春彩堂の屋根に腰掛けた沈夜黎は、焼き栗を頬張りながら首を傾げた。
「栗」
「事件の話よ!」
黒地に金糸の刺繍を施した長衣は、深いスリットから白い脚を覗かせている。風に乱れる短い黒髪、眠たげな金の瞳。首筋の蛇の刺青まで、夕陽に照らされて妙に艶めかしい。
柳紫苑は思わず舌打ちした。
本人が無自覚なのだから始末が悪い。
「阿福の姉、阿蘭を探すんでしょ。遊んでないで降りなさい」
「紫苑、怒ると眉間に皺できるよ」
「誰のせいだと!」
沈夜黎は笑いながら屋根を滑り降りた。着地した拍子に衣の裾が翻り、柳紫苑が反射的に目を逸らす。
「……その服、どうにかならない?」
「似合わない?」
「似合いすぎるのが問題なのよ!」
春彩堂の裏口には、乾いた薬草の匂いが漂っていた。
柳紫苑は錠前を一瞥し、細い針で難なく開ける。
暗殺組織《夜鴉》の首領にとって、これしきの侵入は散歩に等しい。
だが、帳簿を開いた瞬間、その表情が凍った。
「……この筆跡」
「知り合い?」
「元部下よ。韓子明。三年前に組織を抜けた男」
沈夜黎は黙って続きを待った。
「妹が病気でね。治療費を稼ぐために辞めた。……まさか誘拐に手を染めるとは」
柳紫苑の指が短剣の柄を撫でる。
《夜鴉》には掟がある。組織の名を利用して無辜の者を傷つけた者は、首領自ら裁く。
「見つけたら、私が始末する」
「んー」
「何よ」
「その人の妹、まだ生きてる?」
その問いに、柳紫苑は言葉を失った。
沈夜黎は帳簿の一行を指差す。
「白霊草(バイリンツァオ/解熱に使う霊草)の仕入れが急に増えてる。でもこれ、病人に使われてない。黒凝香(ヘイニンシャン/霊力を封じる香)の材料に混ぜられてる」
「……つまり?」
「妹の薬と引き換えに、誰かに働かされてるんじゃないかな」
そのとき、背後で床板が軋んだ。
「動くな」
低い声とともに、刃が沈夜黎の喉元へ突きつけられる。
柳紫苑が振り返るより早く、沈夜黎は相手の手首を軽く捻った。
乾いた音。
短剣が床へ落ちる。
「痛っ……!」
「ごめん。反射で」
「謝るくらいなら捻るな!」
現れたのは、痩せた青年だった。
韓子明。
柳紫苑の目が冷たく細まる。
「子明。説明しなさい」
「……首領」
「無関係な娘を攫ったの?」
韓子明は唇を噛んだ。
「妹が……薬を飲まなきゃ死ぬんです。摂政王府の使いが、仕事をすれば薬を渡すと……!」
「だから他人の姉を奪った?」
柳紫苑の声は静かだった。
静かすぎて、沈夜黎ですら口を挟まなかった。
「妹を救いたい気持ちは分かる。でも、阿蘭にも帰りを待つ弟がいるのよ」
韓子明は崩れ落ちた。
柳紫苑は短剣を抜く。
その刃を、沈夜黎が指先でそっと押し下げた。
「紫苑。妹の居場所、聞いてからにしよ」
「……甘いわね」
「そう?」
「昔から、あんたはそう」
血の匂いがする路地裏。
まだ幼かった柳紫苑が倒れていたとき、沈夜黎は何も尋ねず、傷口に布を巻いてくれた。
『助けたら、何かくれるの?』
そう聞いた自分に、少年は不思議そうに答えた。
『別に。痛そうだったから』
あの言葉を、今でも忘れられない。
「……本当に、腹が立つ」
柳紫苑は刃を収めた。
「子明。妹は助ける。でも、あなたの罪は消えない。逃げずに償いなさい」
韓子明が嗚咽を漏らす。
沈夜黎はその肩を軽く叩いた。
「で、妹はどこ?」
「……南門の療養院です」
「じゃ、行こっか」
「軽いわね、あんた!」
※
療養院には、すでに万宝商会の薬師が待っていた。
「沈雲舟からの伝言です。『費用は貸付金に加算します』と」
沈夜黎は首を傾げた。
「おれ、頼んでないけど」
「『どうせ頼まれるので先に手配した』とも」
柳紫苑は思わず笑った。
この男の周囲には、どうしてこうも世話焼きが集まるのだろう。
病室では、韓子明の妹が静かに眠っていた。
薬師によれば適切な治療を続ければ回復が見込めるという。
柳紫苑は窓辺に立ち、夜風に髪を揺らした。
「阿黎」
「ん?」
「……ありがと」
「何が?」
「本当に、あんたって男は」
柳紫苑は苦笑し、その額を指先で弾いた。
そのとき、韓子明が懐から密書を取り出した。
「首領。これを……摂政王府の使いが持っていました」
紙面には奇妙な術式が描かれていた。
九つの円環。
中央には、蛇の紋章。
そして一行の文字。
《九魂還天陣(九つの魂を用いて天の理を覆す禁術)》
沈夜黎の首筋で、蛇の刺青が微かに熱を帯びた。
柳紫苑は、それを見逃さなかった。
「……阿黎。その首、どうしたの?」
「んー。なんか熱い」
「見せなさい」
彼女が襟元を開くと、蛇の紋様が淡い金色に光っていた。
その美しい首筋に指を添えたまま、柳紫苑は息を呑む。
これは、ただの刺青ではない。
「……厄介なことになったわね」
沈夜黎は眠たげに瞬いた。
「そう? じゃあ帰って寝よ」
「寝るな!!」
自由都市・燈華の夜空に、暗殺組織首領の怒号が響き渡る。
※
一方、黒蛇楼。
「楼主がまた借金を増やしたぁぁぁ!!」
林小鈴の悲鳴が、帳簿の山を震わせていた。
天下泰平は、今日も遠い。
第二話・了。




