第一話 黒蛇楼、本日も客層が終わっている。
九華大陸には、三つの常識がある。
皇族には逆らうな。暗殺者には近づくな。妖狐には決して名を明かすな。
そして自由都市・燈華には、そのすべてを日常的に踏みにじる茶楼(中国式の喫茶店)があった。
名を、黒蛇楼。
「楼主(店主)!! いい加減起きてください!!」
朝の静寂を引き裂いたのは、看板娘・林小鈴の怒号だった。
三階の寝台では、沈夜黎が薄絹の寝衣を肩から滑らせ、気怠げに寝返りを打っていた。
無造作に乱れた黒髪。伏せた睫毛の下には、溶かした黄金を思わせる瞳。白い首筋を這う蛇の刺青と、左耳で揺れる長い十字架が、端整すぎる容貌に危うい色香を添えている。
「……火事?」
「皇太子殿下がお見えです!」
「じゃあ寝る」
「火事より軽いみたいに言わないでください!」
林小鈴が掛布を剥ぎ取ると、沈夜黎はようやく上体を起こした。寝衣の合わせ目から覗く鎖骨に、林小鈴は思わず視線を逸らす。
この男は、顔がいい。
腹立たしいほどに。
しかも自分の容姿が他人に与える影響を、まるで理解していない。
「着替えてください! 胸元もきちんと閉めて!」
「暑い」
「風紀が死にます!」
「風紀って生き物だったんだ」
「あなたのせいで絶滅寸前です!」
階下では、天嵐国の皇太子・蕭景琰が、冷めた茶を前に眉間を押さえていた。
「夜黎。皇宮からの招待状を、また燃やしたそうだな」
「寒かったから」
「招待状は薪ではない!」
「よく燃えたよ」
蕭景琰は額に青筋を浮かべた。
政敵を相手にしても表情ひとつ変えない男が、この情報屋の前では驚くほど簡単に取り乱す。
かつて身分を隠して倒れていた自分に、沈夜黎は何も尋ねず飯を食わせた。
あのときから、この男だけは皇太子という肩書きの向こうにいる自分を見ている。
だからこそ、放っておけない。
「せめて護衛をつけろ。昨夜も刺客が来ただろう」
「来たね。お茶くれた」
「毒入りだったそうだな!?」
「苦かった」
「味の感想を聞いているのではない!」
「朝から騒がしいわね」
二階の窓から、黒紫の衣が翻った。
柳紫苑。暗殺組織《夜鴉》の首領。
「阿黎(愛称)。あんた、また毒を口にしたの?」
「吐いたよ」
「飲む前に気づきなさい!」
「気づいたけど、相手が頑張って淹れてくれたし」
柳紫苑は本気で頭痛を覚えた。
幼い頃、路地裏で血まみれになっていた自分に、沈夜黎は何の見返りも求めず手を差し伸べた。
あの頃から変わらない。人の悪意には聡いくせに、善意を向ける相手を選ぶことが致命的に下手なのだ。
「いつか本当に死ぬわよ」
「そのときはよろしく」
「私は冥府の役人じゃない!」
「ふふ。ならば妾が連れてゆこうかのう」
甘い声とともに、白い尾が沈夜黎の腰へ絡みついた。
九尾の妖狐・白璃月だった。
「阿黎、妾と千年添い遂げぬか?」
「家賃払って」
「求婚を取り立てに変えるでない!」
白璃月は沈夜黎の背後から腕を回し、白い首筋へ唇を寄せた。吐息が蛇の刺青を撫でる。
「……妙じゃな」
「くすぐったい」
「この紋、以前より霊気が濃い」
「石鹸変えたから?」
「妾の千年の知識を石鹸で片づけるな!」
「皆様、朝からお盛んですね」
沈雲舟が、優雅な微笑みを浮かべて現れた。
万宝商会の当主は、沈夜黎の前に帳簿を置く。
「先月の貸付金ですが」
「踏み倒していい?」
「私の目を見て仰ってください」
沈夜黎は素直に顔を寄せた。
金色の瞳が至近距離で瞬き、長い十字架が沈雲舟の頬を掠める。
「……駄目?」
沈雲舟の笑顔が固まった。
商談で数万両を動かす男が、たった一人の無防備な美青年に判断力を奪われる。
「……その顔を交渉材料にするのは禁止です」
「顔?」
「本当に腹立たしいですね、あなた!」
「全員、静かにしてください!!」
林小鈴が盆を叩いた。
「皇太子殿下は身分を隠す! 紫苑様は窓を使わない! 璃月様は尻尾をしまう! 雲舟様は朝食中に借金の話をしない!」
九華大陸の権力者たちが、一斉に口を閉じた。
沈夜黎だけが感心したように頷く。
「小鈴、すごいね」
「楼主が一番反省してください!」
そのとき、入口の鈴が鳴った。
立っていたのは、痩せた少年だった。
「……ここ、何でも知ってる人がいるって」
沈夜黎は少年の前にしゃがみ込んだ。
「いるよ。どうしたの?」
「姉ちゃんが……帰ってこない」
少年は震える手で銅貨を一枚差し出した。
「これしか、ないけど」
沈夜黎は受け取り、少年の冷えた指先をそっと包んだ。
「充分。名前は?」
「阿福。姉ちゃんは阿蘭。春彩堂って薬屋で働いてる」
沈夜黎の瞳が静かに細まった。
「雲舟。春彩堂、最近仕入れ先変えたよね」
「ええ。北方の白霊草を大量に」
「でも三日前に運ばれたのは、霊力を封じる黒凝香だよ」
蕭景琰が立ち上がった。
「黒凝香は皇宮の禁制品だ」
「運搬許可には摂政王府の印があったわ」
柳紫苑の声から、普段の軽口が消える。
沈夜黎は少年に向き直った。
「必ず見つかるとは約束できない。でも、ちゃんと探すよ」
その言葉に、阿福の目から涙が零れた。
彼の手から落ちた薬の包み紙を、沈夜黎が拾う。
隅には、古い蛇の印章。
同時に、首筋の刺青が微かに熱を帯びた。
白璃月の表情が変わる。
蕭景琰も息を呑んだ。
それは千年前に失われた、神蛇の紋章だった。
「……へえ」
沈夜黎は紙を丁寧に畳み、懐へしまう。
「小鈴、お茶もう一杯」
「今ですか!?」
「うん。長い仕事になりそう」
その気怠い笑みを見て、柳紫苑は短剣に手を添え、蕭景琰は密かに護衛の配置を考えた。沈雲舟は資金の算段を始め、白璃月は沈夜黎の首筋から目を離さない。
誰もが、それぞれの理由で彼を守ろうとしていた。
沈夜黎だけが、そのことに気づかない。
「じゃ、阿福。お姉ちゃん迎えに行こっか」
林小鈴は天を仰いだ。
「……今月も絶対、赤字です」
黒蛇楼、本日も天下泰平とはいかず。
第一話・了。




