第四十話 おかえり
魔王の肉体が崩れ去り、黒い煙が霧散する。
迷宮の底に鳴り響いていた歪んだ重低音は消え去り、耳が痛むほどの静寂が洞窟を包み込んだ。
誰も喋らない。
俺は鍵盤からそっと手を離し、ミューズも歌を止めた。
アルコ、コルネも呼吸を殺し、ただ前を見つめている。
魔王の影が消え去ったことで、怪物の背から伸びていた白い翼が光を失い、力を抜かれて小さく折れ曲がった。
その身体が膝から崩れ落ちそうになる。
タッ。
足音が一つ、静かな空洞に響いた。
リオンだった。
膝をついたミサの前に立ち、ゆっくりと視線を合わせる。
「……ミサ」
掠れた声。
「……おかえり」
たった一言。
ミサの揺れる瞳が、リオンの顔を捉える。
ぼやけていた焦点が少しずつ合い、目の前に立つ少女の姿を認識していく。
「……リ……オン……?」
かすかな、震える声。
「……うん。リオンだよ」
リオンが小さく微笑んだ。
ミサの目から、ぽろぽろと粒の大きな涙がこぼれ落ち、岩肌に染み込んでいく。
だが、ミサの顔から血の気が引いた。
これまでの記憶が蘇る。
歌わされていた。
仲間を傷つけていた。
目の前の少女へ、殺意の波動を向けていた。
「……私……私、は……」
震える指先が、自分の胸元を強く掴む。
「……ごめんね、リオン……私……」
「……あなたのせいじゃない」
リオンは首を横に振った。
その瞳に責める色はなかった。
ミサの視線が、ふと彷徨う。
そして、リオンの背後に立つ俺とぶつかった。
俺は何も言わなかった。
声を荒らげることも、言葉で詰問することもしない。
ただ、氷のように冷ややかな視線で、真っ直ぐにミサを見つめ返している。
レガートさんを奪った事実。
魔王に操られていたからといって、胸の奥に燻る怒りが消えるわけではない。
ミサはその強い視線から逃げなかった。
ただ、まっすぐ俺を見つめ返していた。
『……ごめんなさい……』
ミサの唇が声にならない謝罪を形作った。
俺は表情を変えず、ただ視線をそらさずに立っていた。
ミサは溢れる涙を拭いもせず、俺の姿を凝視した。
その目が、驚きに大きく見開かれる。
「……あなたの……音……」
ミサが途切れ途切れに呟く。
「……俺の?」
俺が短く問い返す。
ミサは口を開きかけ、言葉を飲み込んだ。
「……ううん」
首を振り、切なげな眼差しを俺に向ける。
「……あの頃と……同じだから……」
俺にはその意味が分からなかった。
だが、その言葉が鼓膜を揺らした瞬間。
頭の奥で、激しい衝撃が走った。
——ゴォッ!
燃え盛る炎の熱。
崩れ落ちる巨大な建築物の軋み。
肌を焼く不快な臭いと、周囲に響く複数の楽器の音色。
自分以外の誰かと、死力を尽くして旋律を重ね合わせている感覚。
「……くっ」
俺は眉間を押さえた。
一瞬で消えた、断片的な記憶。
……また、これか。
何だったのかは分からない。
視線を戻すと、リオンがミサの肩を静かに抱き寄せていた。
鍵盤を離れた指先に残る、わずかな震えを見つめる。




