第三十九話 天誅
演奏が始まった。
ミューズの澄み切った旋律を核に、俺の鍵盤が重厚な和声を重ねる。
アルコの弦が旋律の輪郭を鋭く研ぎ澄まし、コルネの管が重低音の波となって空間の圧迫を押し返し、リオンのフルートが音の隙間を完璧に埋めていく。
押し負けていない。
魔王の音の波長は、すでに読めている。
俺は演奏を維持しながら、怪物の背後に潜む音源へ意識を鋭利に研ぎ澄ませていた。
重低音の発信源。
一見、正面の怪物から発せられているように聞こえる。
だが、違う。
怪物の身体のさらに奥。暗闇の最深部に、別の核が存在する。
今まであいつの本体に攻撃が届かなかったのは、怪物という盾の陰に身を隠していたからだ。
魔王を攻撃しようとすれば、怪物が魔王を守る。
なら。
俺は何も言わず、鍵盤の上で指先を鋭く跳ねさせた。
解き放たれた高音の音塊が、まっすぐに怪物へと飛翔する。
直前。
怪物の身体に触れる寸前で、音の軌道が大きく折れ曲がった。
怪物の脇腹をすり抜けた一撃が、暗闇の最奥へと突き刺さった。
ズガァン!!
暗闇が跳ね上がった。
『ぐ、ああああああああッ!!』
洞窟の底から、これまで聞いたこともない凄惨な悲痛の叫びが響き渡る。
魔王の重低音が乱れ、空間の歪みが一気に弾け飛んだ。
『守れ』
『守れ』
『早くしろ』
余裕を失った魔王の威圧的な声が飛ぶ。
怪物が機械的な動きで滑り込み、魔王の核を遮るように両腕を広げた。
盾にした。
己の身を守るために、仲間だったはずの者を前面に押し立てる。
唇が、冷たく歪んだ。
二発目。
俺は鍵盤の全鍵を叩き割らんばかりの勢いで振り下ろした。
放たれた一撃は、怪物の正面へ向かう。
怪物が庇う動作をとった瞬間、音波は弧を描くように不自然に旋回した。
怪物の頭上を大きく旋回し、背後から無防備な魔王の核へと急降下する。
ドガァン!!
激しい衝撃音が洞窟を砕いた。
黒い魔力の核に、明らかな裂け目が走る。
そこから吹き出すのは、不快な濁った霧と、崩壊していく重音。
ミューズが旋律を一段高く跳ね上げた。
俺は最後の一音を、鍵盤の最底音へと叩きつける。
ゴン!!
重低音が、完全に潰れた。
霧散する黒い魔力の奥から、崩れ落ちるものがあった。
肌が干からび、骨と皮だけになった、よぼよぼの老いた肉体。
千年の時を封印の奥で貪り、縮みあがった醜悪な残骸。
それが、地上を恐怖に陥れていたものの正体だった。
『……お前の……身体さえ……あれば……』
魔王が掠れた肉声で呟き、不格好に腕を伸ばしてミューズへ向かって這う。
一歩。指先が岩肌を引っ掻く。
だが、それ以上、動くことはなかった。
「……っ」
糸が切れたように、その身体が突伏する。
黒い靄も、重低音も、すべてが泡のように消えていった。
息の音すら掠れるような静かな空間。
俺は鍵盤から手を離した。
ミューズが歌を止め、アルコ、コルネ、リオンも楽器を下ろす。
魔王の息絶えた残骸の向こうで、怪物の身体から力が抜けていくのが見えた。
背中の白い翼が光を失い、ゆっくりと折りたたまれる。
リオンが掠れた声で一歩踏み出した。
「……ミサ」
怪物の薄い唇が開く。
「……リオン……?」
その瞳に、千年の時を超えた光が宿っていた。




