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第三十八話 誰にも奪わせない

『ならば――次は、お前だ』


 暗闇の奥から響く重低音とともに、空間の重力が一気に跳ね上がった。


 黒く濁った魔力がツタのように伸び、ミューズの喉元へと絡みつく。


「……っ……あ……!」


 ミューズが息を詰まらせ、両手で喉を抑えた。

 だが、その指の隙間から、不自然な旋律が漏れ出し始める。


 歪んだ音律。

 ミューズ自身の意思ではない。魔王の魔力が彼女の喉を強引に震わせ、音を吐き出させている。


「ミューズ!」


 俺は即座に鍵盤を叩いた。


 魔王の狙いは、ミューズを殺すことでも、無力化することでもない。

 あいつは、ミューズの歌声を奪おうとしている。


 いや、違う。

 奪うだけなら、こんな回りくどいことをする必要はない。

 あの音は、ミューズの歌声に何かを重ねようとしている。


「ミューズの声を繋ぐ! アルコ! 絡みつく糸の根本を断て!」

「はい……っ!」


 アルコの弓が走り、ミューズの喉元へ伸びる黒い魔力の音を断ち切る。


「コルネ、重力を押し返せ!」

「任せなさい!」


 コルネの魔導管楽器が大出力を叩きつけ、ミューズの肩を押し潰そうとしていた圧迫感を打ち払う。


 リオンのフルートが、魔王の音に侵されかけた旋律の本来の繋がりを補強していく。


 だが、魔王の重低音は退かない。


『歌え』


 地底からの声が直撃し、ミューズの喉が再び悲鳴を上げた。

 瞳から涙がこぼれ落ちる。


「……嫌……です……!」


 痛みに耐えながら、ミューズが絞り出された声で拒絶した。


『歌え』


「この歌は……私のものです……!」


 ミューズが強く息を吸い込んだ。


 吐き出されたのは、魔王の命じた歪んだ音律ではない。

 彼女がこれまで歌い続けてきた、澄み渡る素朴な旋律。

 自分の意思で手繰り寄せた、世界でたった一つの歌声。


 俺はその歌声を逃さず拾い上げ、鍵盤の上で和声を重ねた。

 主旋律を塗り替えるのではない。彼女の歌を核として、周囲の音を補強する。


 アルコの弦、コルネの管、リオンの笛。

 五つの音がミューズの歌声を囲み、魔王の干渉を弾き飛ばしていく。


 澄み渡る一音。


 ミューズに絡みついていた黒い魔力が、完全に霧散した。


 地底から、これまでとは異なる不気味な静寂が返ってきた。


『……そうか』


 魔王の声が、空間を撫でる。


『その歌ならば、届く。……やはり、お前の歌が必要だ』


 確信に満ちたその響きに、背筋が冷える。


 動きを止めていた怪物の瞳が揺れた。

 ミサが、ミューズの歌声に顔を向けている。


「……ソノ……歌……」


 怪物の薄い唇から、かすかな声が漏れる。


「……あなたは……?」


 ミューズの問いに、怪物から返答はない。

 再び魔王の重音に縛られ、機械的な空洞へと戻っていく。


 リオンの顔から血の気が引いていた。


「……まさか」


 フルートを握る指先が、目に見えて震えている。


「リオンさん……?」

「……まだ、確証がない。……だが」


 リオンは言葉を濁し、強く唇を噛み締め直した。


 だが、思考を巡らせる隙は与えられなかった。

 地底から、先ほどとは比べ物にならないほどの密度の重低音が溢れ出してくる。


 魔王がその力を解放し始めていた。


「ミューズ、歌えるか」

「はい……歌います」


 ミューズが力強く頷く。


 ミューズが息を吸う。

 俺も鍵盤に指を置く。

 アルコが弓を構え、コルネが魔導管楽器を抱え直す。

 リオンも、フルートを口元へ運んだ。


 五つの音が、再び重なろうとしている。


 今度は、誰にも奪わせない。


 俺たちの演奏が、始まった。

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