第三十七話 解かれし旋律
『……その歌』
地底を揺らす歪な重低音が、空洞の岩肌を細かく震わせた。
――♪
怪物の歌声が再び響き渡った。
先ほどと何も変わらない。清らかで、澄み切った旋律。
だが、空間の異変は一気に加速した。
「……っ、カノンさん! 距離が……!」
アルコの声が、右から聞こえたはずなのに視界の左端で掠れる。
視覚と聴覚の整合性が崩れていく。互いの位置関係が歪み、魔力の流れが途切れる。
空間が物理的に捻じ曲げられているわけではない。
この怪物の歌は、人間の認知そのものに干渉し、方向感覚を麻痺させている。
「惑わされるな。音を直接耳で追うな。魔力の波長だけを捉えろ」
背後の仲間に短く告げ、俺は鍵盤へ指を滑らせた。
怪物の歌声は、どこまでも美しい。
一切の濁りもなく、完璧なまでのピッチで紡がれる神聖な讃美歌。
リオンがフルートを吹く。
寸分狂わぬ完璧な旋律のはずが、やはり怪物の歌に対してほんのわずかに遅れる。
重ねようとしては、飲み込まれ。
もう一度息を吹き込んでは、またわずかにずれる。
「……ミサ」
リオンが、小さくその名を呼んだ。
ピタリ。
怪物の歌声が止まった。
空洞だった瞳がゆっくりと動き、リオンの姿を捉える。
一瞬、その顔に人間らしい光が宿ったように見えた。
『歌え』
最奥からの重低音が割り込む。
怪物の身体が不自然に緊張し、再びその唇から美しい旋律が溢れ出した。
……なるほど。
俺は鍵盤を叩きながら、その歌の奥底を聴き込んでいた。
旋律の裏。美しい高音の陰に、糸のように細く、重く絡みつく異物がある。
魔王の低い音。
それが怪物の歌声に寄生し、認知を歪める悪意を増幅させている。
この歌は、あいつだけのものじゃない。
怪物の歌を消す必要はない。
あの歌声に絡みついている、低く濁った音だけを削ぎ落とせばいい。
「アルコ! 旋律の表面に絡む糸を切れ!」
「はい……っ!」
アルコの繊細な弓筋が、音の歪みを局所的に断ち切る。
「コルネ、正面の重低音を押し返せ!」
「任せなさい!」
コルネの魔導管楽器が大出力を放ち、空間の圧迫感を正面から押し戻す。
「ミューズ、俺の音を繋げ!」
「……わかりました!」
ミューズの歌声が、俺たちのバラバラになりかけた音を一つに束ねていく。
そして、リオン。
彼女のフルートの音が、怪物の歌の本来の旋律線を描き出し、逃げ道を塞ぐ。
五人の音が、完璧なパズルとなって噛み合わさった。
俺は鍵盤の上で、指先を一直線に振り下ろした。
魔王の低音が最も濃くなる、旋律の繋ぎ目、その一点へ。
キィン!
鋭利な一音が、怪物の歌声の奥を撃ち抜いた。
魔王の濁った音が、ぷつりと切れる。
直後、怪物の歌声から歪みが消え去り、ただただ澄み渡った無垢な旋律が空洞を削り取った。
「……っ」
怪物の動きが止まった。
揺れる瞳が、まっすぐに俺を見つめる。
「……カ……ノ……」
掠れた、途切れ途切れの声。
「……逃ゲ……テ……」
その薄い唇が、明確な意思を持って言葉を紡いだ。
俺は何も言わず、ただその姿を見つめ返した。
洞窟の最奥が激しく鳴動した。
『……その歌声も、まだ残っていたか』
地底からの声が、ミサの言葉をかき消す。
怪物の表情が再び消え、機械的な空洞へと戻っていく。
そして、魔王の意識がミサから離れ、背後のミューズへと一直線に注がれた。
「……え?」
ミューズが息をのむ。
彼女の身体に、黒く濁った魔力がツタのように絡みつき始めた。
「ミューズ!」
俺は即座に鍵盤へと手を引き戻した。
『ならば――次は、お前だ』
暗闇の奥から響くその声とともに、空間の重力が一気に跳ね上がった。




