第三十六話 天使の曲
迷宮の最下層。
岩肌を突き破るように現れた巨大な空洞へ足を踏み入れた瞬間、それまで空間に満ちていた音の吸引感がピタリと止んだ。
完全な静寂。
呼吸音すら異物のように浮き上がる冷気の中、奥の闇から、その音が聞こえてきた。
――♪
清らかで、澄み渡る女の歌声。
旋律は重なり合い、まるで目に見える光の帯のように空間をたゆたう。
「……あ」
アルコが息をのんだ。
言葉も出ず、ただ吸い寄せられるように暗闇の奥を見つめている。
噂に語られた天使の曲。
暗闇の奥から、白い翼を持つ人影がゆっくりと降ちてきた。
透き通るような白銀の髪。感情の欠け落ちた美しい顔立ち。
「……天使」
アルコが掠れた声で呟く。
だが、俺の身体は完全に固まっていた。
立ち籠める血の匂い。
視界の端で崩れ落ちる人影。
断絶の音。
……あいつだ。
レガートさんを殺した、あの音。
あの日の光景が、頭の中に蘇る。
俺は何も言わず、ただ背中の鍵盤へ手を滑らせた。
「……ミサ」
背後で、小さな声が漏れた。
「……まだ、そこにいたんだね」
リオンの手に握られたフルートが、かすかに震えている。
「……ごめんね」
リオンは唇を噛み締め、フルートを構えた。
◇
怪物の歌声が一段と高く響き渡った。
不快な不協和音ではない。
神聖な讃美歌のように美しい旋律が空間を満たしていく。
だが、それに触れた瞬間、肌の表面がピリついた。
身体が重い。魔導鍵盤へ巡らせる魔力の速度がじわじわと落ち、空間の距離感が狂い始める。
美しすぎる音が、認識そのものを殺しにきている。
「アルコ、歌に呑まれるな!」
「……っ! はい!」
アルコが我に返り、魔導弦楽器の弓を強く握り直した。
リオンが息を吹き込む。
だが。
……ズレている。
リオンのフルートの音が、怪物の歌声に対してほんの一瞬、遅れる。
もう一度。
また、わずかに遅れた。
リオンほどの演奏家が、こんなところで音を外すはずがない。
「……」
リオンは何も言わなかった。
俺は何も言わず、自らの鍵盤を広げた。
「コルネ、正面の旋律を押し返せ! ミューズは俺の低音に重ねろ!」
「任せなさい!」
「はい……っ!」
コルネの大出力の重奏が放たれ、怪物の歌声が描く光の帯と激突する。
だが、怪物は一歩も退かない。
たった一人。
たった一つの歌声で、ヴィヴァーチェ全員の音を真正面から押し返し、空間を圧迫していく。
これまでの魔物とは根本的に違う。
本物の演奏家の威圧。
俺は鍵盤の上で、指先を跳ねさせた。
重低音の波を織り上げ、怪物の歌声、その旋律の繋ぎ目へと、鋭利な一音を打ち込む。
キィン!
俺の解き放った高音の和声が怪物の歌声を捉えた。
怪物の歌声が、唐突に途切れた。
空洞だったその瞳が微かに揺れ、まっすぐに俺を見つめ返す。
「……?」
初めて見せた、表情の揺らぎ。
怪物の薄い唇が、静かに開く。
「……カ……」
かすかな、途切れ途切れの声。
だが、その言葉が形を成す前に、洞窟の最奥から歪な重低音が爆発した。
『……その歌』
地底を揺らす魔王の咆哮。
空間の空気が、さらに重く、深く沈んでいった。




