第三十五話 音の迷宮
数時間後。
俺たちは音の迷宮の入口に立っていた。
かつてレガートさんを失った場所。
そして、居場所を失ったアルコと出会った場所。
受付には誰の姿もない。羊皮紙や案内板が床に散らばり、もぬけの殻と化していた。
踏み出す足音が、妙に遠く感じる。
声の輪郭が曖昧になり、吸い込まれるように消えていく。
「……おかしい」
背後にいたリオンが、小さく眉をひそめた。
「何がですか?」
「音が違う。千年前も、ここは反響の強い場所だった。……だが今は、音そのものが奥へ引きずり込まれている」
……ズゥン。
地底の遥か深くから、重く低い地鳴りのような音が届いた。
「……魔王だ」
リオンが短い声で断言する。
最下層に封じられた奴の音が、迷宮全体へ響いている。
この場所は覚えている。
あのときも、ここを通った。レガートさんと一緒に。
視線を落とす。
……今度は、一人じゃない。
「カノン、来るわよ!」
コルネの警戒する声とともに、通路の奥から複数の気配が滑り出してきた。
◇
現れたのは、かつて見かけた迷宮の魔物。
だが、その様子は明らかに異質だった。
二足歩行の蜥蜴のような異形。
その口からは猛獣の咆哮ではなく、不協和音の混じる不快な旋律が漏れ出していた。
動きと音が不自然にずれ、魔王の音が地下から響くたび、関節が歪に跳ね上がる。
「……こいつ自身の音じゃないな」
俺は耳を澄ませた。
地底から響く低い音と、異形の動きが重なっている。
「魔王の音に反応している。反響を利用して攻撃してくるぞ」
異形が口を開き、甲高い破砕音を吐き出した。
音が壁に乱反射し、不規則な衝撃波となって押し寄せる。
「……そういうことか。なら、その反響を断てばいい」
俺は空間へ鍵盤を展開し、指先を滑らせた。
低音の波動を放ち、敵の放った音の軌道を書き換える。
「アルコ、右の反響音を潰せ。コルネは出力を殺すな。中央の音を押し返せ!」
「はい!」
「任せなさい!」
アルコの魔導弦楽器から繊細で鋭い旋律が放たれ、壁に反射する衝撃波の隙間を的確に射抜く。
間髪入れず、コルネの魔導管楽器から魔力を秘めた重奏が爆発する。
正面から押し寄せる敵の旋律を、そのまま押し返していく。
「ミューズ、音の軸を繋げ!」
「はい……っ!」
ミューズの喉から、澄み渡る歌声が上がる。
バラバラになりかけた俺たちの旋律が、歌声を中心にひとつへとまとまっていく。
そこへ、凛としたフルートの澄んだ音が重なった。
リオンの奏でる旋律は、敵の体内を巡る不快な音律へ直接干渉し、その不協和音を打ち消していく。
五つの音が重なった。
噛み合った波となって洞窟内を穿つ。
崩れた体勢を立て直す間もなく、俺は最後の一音、鋭利な高音の和声を打ち込んだ。
――ドォン!
音波の衝撃が敵の核を貫き、異形たちは、力なく崩れ落ちた。
◇
「……ふん。まあ、悪くないじゃない」
コルネが息を吐きながら、魔導管楽器を肩に担ぎ直す。
「リオンさんのフルート……すごいです。敵の音が、一瞬で消えました」
「そなたたちの音も、見事であった。一人ひとりの音が互いを引き立てている」
リオンはフルートを握り直し、俺たちの連携に驚きを見せていた。
「……あ」
ミューズがぽつりと声を漏らした。
無意識のうちに、彼女の喉が震えている。
さっきまで歌っていた旋律とは違う。
かすかだが、どこか哀愁を帯びた、濁りのない不規則な旋律。
「……ミューズ?」
「分かりません……。でも、今……喉が勝手に……」
その声が途切れた、直後だった。
静まり返った洞窟の奥、遥か深層から、音が出現した。
――♪
ミューズが今くちずさんだ旋律と、まったく同じ音律。
攻撃ではない。
まるで、彼女の歌声に応えるような、明確な返事。
アルコとコルネが息をのむ。
リオンの指先が、フルートの上で固まった。
「……今の音を、知っているのですか?」
ミューズの問いに、リオンは答えなかった。
唇を固く結び、奥の暗闇を見つめている。
『ようやく、見つけた』
昨夜、端末から響いた魔王の声が脳裏をよぎる。
なぜ魔王は、ミューズの音に応答した?
あいつが探していたのは。
「……行こう」
俺は鍵盤へ手を添え、足を踏み出した。
「この先に、奴がいる」




