第三十三話 深層からの呼声
「……また、聞こえる」
リビングの椅子に深く腰掛けたミューズが、胸元を小さく握りしめて呟いた。
「昨日より強くなっているのか?」
「……いえ。大きさは変わっていません。ただ、近く感じるんです。耳元で鳴っているみたいに……」
ミューズの視線は定まらず、浅い呼吸を繰り返している。
テーブルの魔導端末が青く明滅した。
皇宮からの緊急召集の報だった。
「……皇帝陛下も、何か分かったのかもしれないな」
俺たちはすぐさま着替え、皇宮へと向かった。
◇
扉が開かれ、案内された謁見の間。
玉座の前で待っていた皇帝の表情には、これまでの柔和さは欠片もなかった。
皇帝としての厳かな空気が、その場を支配している。
「此度、そなたたちを呼んだのは、先日の異変について伝えておきたいことがあるからだ」
皇帝は羊皮紙の報告書を俺たちに差し出した。
同じ旋律を無意識に口ずさむ住民の急増。
頭から離れない音。
夢の中にまで侵入する旋律。
「……これは、千年前にも起きた」
皇帝の言葉に、アルコとコルネが息を呑む。
「千年前にも……?」
「そうだ。そして、あの音の正体は、魔王だ」
魔王。
その二文字が室内に響いた。
視界がぐらりと歪んだ。
視界を埋め尽くす炎。
崩壊する巨大な塔。
皮膚を焼く熱と、喉を刺す異臭。
激しい楽器の音色と、耳を裂く殺気。
「……っ」
視界が煤け、激しい目眩が襲う。
俺は思わず額を押さえた。
「カノンさん……?」
「……いや。すまない、少し立ちくらみだ」
胸の奥が不自然に脈動していた。
自分が一度も見たことのないはずの光景が、一瞬だけ脳裏を掠めた感覚。
皇帝の視線が鋭く俺の顔に注がれている。
「話を戻そう」
皇帝は視線を巡らせる。
「千年前の戦いで、魔王は討ち果たされたわけではない。音の迷宮の最下層へ封じられた。……現在も、奴はそこにいる」
「封印されているなら、なぜ地上に……?」
皇帝は首を横に振った。
「封印自体が完全に破られたわけではない。奴自身が地上へ現れたわけでもない。……それでも、音だけがこちらへ届いている」
皇帝は少し言葉を切り、深く息を吐いた。
「問題は、なぜ今になって魔王の音だけが最下層から漏れ出し、地上まで届いているのかということだ。魂魄の迷宮での骸竜の暴走と、無関係ではあるまい」
言い終えた皇帝は、ミューズへ視線を向けた。
「……ミューズ。そなたは、あの音を聞いているのだな?」
「はい……」
「なぜだ?」
「分かりません……。初めて聞いたはずなのに、ずっと前から知っていたような気がして……」
迷子の子供のように肩を落とすミューズを、皇帝は黙って見つめる。
指先を僅かに動かし、最後に再び俺へと視線を向けた。
「……カノン」
「……何か?」
「いや……何でもない」
◇
その日の夜。
静まり返った部屋で、一人窓辺に立っていたミューズの口から、小さく旋律が漏れ出した。
かすれ、濁った、不規則な音律。
彼女の瞳からは光が消え、無意識のうちに喉が動いている。
「……ミューズ?」
声をかけても反応がない。
俺は鍵盤を展開した。
ただ、彼女の濁った音を包み込むように、温かな和音を重ねる。
指先が光の鍵盤を叩いた。
卓上の魔導端末が、脈動するように明滅を始めた。
画面は黒く塗り潰されたまま。
だが、スピーカーから、地底の泥を擦りあわせたような濁った異音が溢れ出す。
『かのん』
指が止まった。
遠く、気の遠くなるほど深い場所から届く声。
部屋の空気が一瞬で氷結したように重くなる。アルコとコルネが息を殺して固まった。
「……誰だ」
喉の奥が乾く。
「……俺の名前を呼ぶのは、誰だ」
知らない声のはずなのに。
なぜか、ひどく懐かしい。
沈黙を切り裂き、端末から二度目の声が届いた。
『ようやく、見つけた』




