第三十二話 千年前の記憶
帝都の中心、静寂に包まれた皇宮の執務室。
豪奢な机の上に、何枚もの報告書が積み上げられていた。窓の外からは、微かに帝都の街並みの喧騒が届いている。
皇帝は手元の報告書に目を通していた。
『帝都および周辺地域における奇妙な症例について』
特定の旋律を無意識に口ずさむ者が増えている。
どこで覚えたのか本人にも判別できず、音楽を止めても頭から離れない。
夜の夢の中にまで、その旋律が残るという。
「……奇妙な事件だな」
皇帝は報告書を繰る。
当初は魔導具の暴走か、違法な魔導具による集団催眠の類だと思っていた。
だが、読み進めるうちに、彼女の指先がピタリと止まった。
報告書に記された、住民たちの細かな言動。
口ずさむ旋律の不規則な音程。
そして、音を聴いた者の瞳に浮かぶ虚ろな光。
「……この症状」
皇帝の瞳が揺れた。
指先が、わずかに震える。
彼女は机の奥から、古びた羊皮紙の綴りを取り出した。現代の帝国図書館にも存在しない、固く閉じられた極秘の記録。
現在の報告書と、その古代記録を並べる。
一字一句、照合していく。
音の伝播。人々の反応。そして、精神の中に侵入する音の性質。
「……同じだ」
掠れた声が執務室に落ちた。
「千年前と……同じことが起きている」
◇
凛音は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
眼下に広がる広大な帝都。夜の帳が下り、魔導の灯火が街を彩り始めている。
平和そのものに見えるその街の底で、あの不快な音が蠢いている。
千年前。
自分たちは死力を尽くし、あの絶望と戦った。
そして、最後にあの存在を封じたはずだった。
「……そんなはずはない」
胸元に手をつき、凛音は浅く息を吐く。
「魔王は、封じたはず……」
視線が揺れる。窓ガラスに映る己の顔を、固い眼差しで見つめ返す。
「まさか……封印が、解かれているの……?」
◇
部屋の中央に戻り、凛音は机の引き出しを開けた。
その奥に置かれていたのは、鐘の首飾りだった。
持ち上げると、指先に冷たい感触が伝わる。
カラン……。
小さく清らかな金属音が、静寂を揺らした。
共に泥を払い、笑い合っていた時間。
音を交え、血を流し続けたあの戦い。
そして、去っていった者たちが残した痕跡。
凛音は目を閉じ、首飾りを胸の前に固く握りしめた。
千年の歳月を背負い続けてきた肩が、僅かに上下する。
「……皆なら、どうするかな」
呟く声は、幼さを残した一人の少女のものだった。
「……私に、できるかな」
凛音はゆっくりと目を開けた。
握りしめた鐘の首飾りを見つめる。
「……華音くん」
その名を口にするのは、いつ以来だろう。
息を整え、窓の外の夜空を見上げる。
「私……皆みたいに、またこの国を救えるかな」




