第三十一話 異変の残響
「アルコ、朝だ」
扉を軽く二回叩く。
「……はい」
「今日は起きるのが早いな」
「今日はカノンさんに起こしてもらえたので……」
「昨日も起こしただろう」
「……そうでしたっけ」
小さな欠伸とともに扉が開く。
◇
陽光が差し込むリビングで、四人揃って朝食を囲む。
ふと見ると、スープに手を伸ばしたミューズの動きが止まっていた。少しだけ目元に影が落ち、ぼんやりと手元を見つめている。
「……昨日の音が気になるか?」
俺が声をかけると、ミューズははっと肩を揺らした。
「……少しだけ」
視線を落とし、小さく答える。
その時だった。
ミューズの唇から、小さく、掠れた旋律がこぼれ落ちた。
ごく短い、不規則なメロディ。
俺の手が止まる。
「……今の曲」
「え?」
ミューズが不思議そうに首をかしげる。
「昨日の音に似ている」
「私……今、歌ってました?」
ミューズ自身、自分が声を漏らしたことに気づいていない様子だった。
「……気のせいかもしれない」
俺は深く追及せず、紅茶のカップを持ち上げた。
胸の奥に小さな引っかかりが残った。
◇
食後、昨日訪れた街の自治会長から、ギルド経由で追加の連絡が入った。
街での異変が、さらに進行しているという。
『知らない旋律を無意識に口ずさむ住民が増えています。どこで覚えたのか本人にも分からず、音楽を止めても頭から離れないとのことです』
ただの不快な異音から、人間の中に残り続ける旋律へ。
「昨日の続きなら、放っておけないな」
◇
再び訪れた街は、昨日とは明らかに違う薄暗い不気味さに包まれていた。
通りを歩く子供。
露店の店員。
ベンチに腰掛ける老人。
それぞれ別の場所にいる人間たちが、同じ旋律を、虚ろな目で静かに口ずさんでいる。
誰かの真似をして歌っているわけではない。
異物のように、その口から旋律が漏れ出しているのだ。
「……やっぱり混ざっている」
耳を澄ます。
ごく薄い濁り。
それは単なる異音ではない。旋律そのものに紛れ込み、ひとつの音楽として形を成していた。
「力任せに消すんじゃない。別の音を重ねる」
俺は広場の中央で鍵盤を展開した。
アルコが弓を滑らせ、コルネが息を吹き込み、ミューズが声を重ねる。
四人の温かな音が広場を満たしていくと、住民たちの口ずさむ声が、一つ、また一つと途切れていく。
「……あれ?」
「何だか、頭が軽くなったような……」
茫然としていた人々の表情から、少しずつ力が抜けていく。
広場には、いつもの穏やかな空気が戻っていた。
だが。
演奏を終え、静まり返った広場で、ミューズだけが自分の胸元を強く握りしめたまま立ち尽くしていた。
「ミューズ?」
「……消えません」
「何が?」
「あの音です。……まだ、聞こえています」
消え入りそうな声で、彼女は言った。
◇
帝都へ戻ると、冒険者ギルドから新たな連絡が届いていた。
『先日の街で確認された異変について、追加の報告が入りました。現在、帝都内でも同様の旋律を聞いたという報告が複数寄せられています』
「帝都でも……?」
アルコが画面を見つめる。
「街だけの問題じゃなかったのね」
コルネが眉をひそめた。
「……少し厄介だな」
俺は画面を見ながら呟いた。
◇
夜。帝都の家のリビング。
四人はそれぞれ静かに過ごしていた。
窓の外を眺めていたミューズが、ふと隣に立つ俺を見上げる。
「……カノンさん」
「ん?」
「あの人たちも……あの音を知っているんでしょうか」
「……分からない。でも、確かめる必要はありそうだな」
テーブルの上に置かれた、魔導端末から音が鳴った。
つ、と一音だけ。
「――♪」
耳の奥に残る、不快な一音だった。
俺は振り返り、その画面を睨みつけた。




