第三話 今日からここが帰る場所
ダンジョンを出て、街の雑踏の中へ戻る。
夕刻の通りには商人たちの威勢のいい声と、酒場から漏れ出る賑やかな喧騒が満ちていた。
その片隅を並んで歩く俺たち。
アルコは一歩後ろを歩きながら、周囲の冒険者たちと俺の背中を交互に見遣っていた。ときおり、通行人と肩が触れそうになると慌てて身をすくめ、手にした楽器ケースを強く抱え直す。
アルコが視線に気づいて肩を跳ねさせた。
「そういえば、アルコ」
「は、はいっ! 何でしょう、カノンさん!」
俺は歩幅を少し緩めながら尋ねる。
「君はどうして、あんな場所にいたんだ?」
音の迷宮。
特殊な音波が空間認識を狂わせ、幻聴に惑わされた冒険者の遭難が絶えない高難易度ダンジョンだ。ソロでの進入は自殺行為とされている。
「あ……あの場所ですか」
アルコは気まずそうに目線を落とし、抱え込んだ魔導弦楽器の革紐を指先でぎゅっと握りしめた。
「……私みたいな演奏家が一人で入るような場所じゃないってことは、分かってたんです! でも、どうしても、最後に天使の曲を聴きたかったんです!」
「天使の曲……か」
「はい! カノンさんもご存知ですよね、あの伝説! 音の迷宮の最深部にいる天使が奏でる曲は世界で最も美しい音楽だって……!」
語るうちに、アルコの瞳から陰りが消えていった。
「カノンさんも……聴いてみたくないですか? 演奏家なら、やっぱり一度は憧れたり——」
無邪気に尋ねてくるアルコ。
右手が無意識に固く握りしめられる。爪が手のひらの皮膚に深く食い込み、小さな痛みを刻む。
『カノン。音楽は人を傷つけるためにあるんじゃない』
頭の奥底で懐かしい男の声がした。
あの穏やかな顔と、血の匂い。
息をのむアルコの前で、俺は拳の力を抜き、困ったように口元を歪めた。
「あいつの曲は、そんないいもんじゃないよ」
冷え切った声だった。
だが、アルコはその気配に縮こまるどころか、目を丸くして俺の顔を覗き込んできた。
「ふえっ!? ほ、本当に聴いたことがあるんですか!?」
驚くほどまっすぐな瞳で距離を詰めてくる。
「……まあ、昔に少しだけな」
「どんな曲だったんですか? 私、ずっと気になっていて……! どんな音色で、どんな構造で——」
矢継ぎ早に問いかけてくるアルコの勢いに、俺は軽く手を振った。
「……昔の話だ」
語るべき言葉はない。
語りたくない。
これ以上、あの歪んだ旋律の記憶に触れるつもりはなかった。
すっかり陽が落ちかけていた。
活気ある市場の喧騒から少し離れた路地裏。
足を止めたのは木造の質素な宿屋の前。
「これから、どうするんですか?」
アルコが不安そうに見上げてくる。俺は看板を見上げ、短く答えた。
「まずは宿だな」
引き戸をくぐると、乾燥した木の香りと、奥の食堂から漂うスープの匂いが鼻をくすぐった。
手入れの行き届いた床と、防音性に配慮された分厚い木壁。
決して豪華ではないがちょうどいい塩梅の宿だった。
カウンターの奥から顔を出した年配の女将が二人の姿と大きな荷物を交互に見比べ、手際よく鍵を取り出す。
「はいはい、二人部屋でいいかい?」
「えっ、あ、二人……!?」
アルコが急に顔を赤くして狼狽するが、俺は特に気に留める様子もなく硬貨をカウンターに置いた。
「ああ、それで頼む」
食堂の隅の席で、温かい豆と肉のシチューを向かい合って食べる。
誰かと食卓を囲む、久しい感覚。
ここ最近はバフの計算と音源の調律に追われ、冷めたパンを自室で噛みちぎるのが常だった。
「……美味しいですね」
アルコが緊張のほぐれた顔でほっと息をつく。
「明日は……どうしますか?」
「ダンジョンへ行こう」
アルコはスプーンを止めて驚いたように目を丸くした。
「また行くんですか? 今日戻ってきたばかりなのに……」
「今日の演奏だけではまだ分からない。君の音をもっと聴いてみたいんだ」
「え……」
アルコは気圧されたように頷いた。
「……あ、はい!」
部屋に入ると二人の間に言葉のない時間が流れた。
窓から差し込む月光を眺めながら、アルコがポツリと呟く。
「……なんだか、不思議ですね」
「何が?」
「息をするのもすっごく楽なんです。……こんな風に、普通に座っていられるのなんて、いつ以来か」
アルコは視線を俺へ向けた。
「カノンさんは……帰る場所、あるんですか?」
帰る場所。
そう聞かれて、真っ先に浮かぶのはかつての仲間たちの顔。
何年も一緒に戦ってきた。
笑ったこともあった。苦しい時には背中を預けたこともあった。
俺にとって、あいつらは家族だった。
……だからこそ、もう戻れない。
戻れない。
「……ないな」
ただ、もうそこに自分の居場所がないというだけの事実。
アルコは何も言わず、俺を見つめている。
俺はその視線を受け止め、部屋の中へと目を向けた。
壁際に並ぶ、二つの楽器。
俺の魔導鍵盤と、アルコの魔導弦楽器。
「でも、今日からここが俺たちの帰る場所だ」
アルコは一瞬呆気にとられたように目を見開いた。
それから、溢れ出るものを堪えるように目元を緩め、小さく笑った。
「……はい!」
かみ締めるように頷く。
「じゃあ……ここに帰ってきてもいいんですね」
「ああ」




