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第二話 君の音は、君だけのものだ

 ダンジョンの受付には熱気とは無縁の冷めた空気が漂っていた。


「……お一人ですか?」

「そうだ」


 受付の女性が羊皮紙と俺の姿を交互に見比べる。

 腰のバックルには必要最低限の魔導水と、数日分の乾燥肉。長期攻略に赴く冒険者としてはあまりにも貧弱で無防備な装備。


「深層攻略の資格はお持ちのようですが……単独での進入は推奨されておりません。メンバーの補充はお考えにならないのですか?」

「分かっている。だが、必要ない」


 それ以上、何も言わなかった。

 返答を待たずに受付票を受け取り、そのままダンジョンゲートをくぐる。


 攻略など最初からする気はなかった。

 俺の目的はただ一つ。この地下迷宮の最深部に潜むあの怪物のもとへ辿り着くこと。

 その果てに自分が生き残れるかどうかなんて、どうでもよかった。仇を討ち、自分に課せられた約束を果たせれば、それで俺の役割は終わる。


 帰る理由なんて、もうどこにもなかった。


 地下二層。湿った光苔と冷えた岩肌が続く洞窟を進む。

 その通路の脇、仄暗い岩陰に動く人影。


 膝を抱え、壁に寄りかかるようにして座り込む少女。

 その抱擁の中には小ぶりの魔導弦楽器が抱えられていた。しかし、その弓が弦を擦る気配はない。ただ、失意の底に沈むようにして自分の楽器を見つめている。


 通り過ぎようとした、その時だった。


「……演奏家、ですよね」


 掠れた、繊細な声だった。

 立ち止まり、背の魔導鍵盤に手を触れる。


「……そうだ」

「私も……演奏家だったんです。ついこの前までは」


 少女は力なく笑おうとして、失敗した。少女の足元には、破り捨てられたパーティの契約書が散らばっていた。


「火力が足りないって言われました。他の攻撃魔法使いを入れた方が手っ取り早いって。バフならアイテムや録音音源で代用できる。お前のまどろっこしい演奏を待つ枠はないって……」


 淡々と吐き出される言葉には己の存在を根底から否定された痛みが滲んでいた。

 同じだ。


「だから……もう、いいんです。私の演奏なんて、誰も必要としていませんから。……もう、音を鳴らす理由もないんです」

「君はもう音楽をやめるのか?」


 少女は小さく肩を揺らし、下を向いたまま答えた。


「……やめるんじゃないんです。……やめさせられたんです」


 その消え入るような返事に胸が軋む。

 放っておくべきだった。死に向かう俺が他人の人生に立ち入る資格などないはずだ。

 それなのに、目の前の小さな背中に居場所を失った自分自身の姿がどうしても、どうしても重なって離れない。


 ——グァァァァン!!


 湿った洞窟の天井が揺れた。


 暗がりから這い出てきたのは岩肌のような強固な甲殻を纏った魔獣——鋼鉄蜥蜴(アイアン・リザード)の群れ。三匹。鋭い鉤爪が石畳を削り、赤く濁った瞳がこちらを捉える。


 少女が息を飲み、悲鳴を押し殺すように身をすくめた。

 だが、逃げ出そうとはしない。ただ震える手で、抱えた弦楽器のネックをぎゅっと握りしめていた。


「弾けるか?」


 俺の問いに、少女は泣きそうな顔で首を振った。


「……もう、自分の音がどういうものなのか……分かりません」

「なら、好きに弾け」

「え……?」

「上手く合わせようとするな。君が今、鳴らしたい音をただ鳴らせ」


 俺は背中の魔導鍵盤に手をかけた。

 カチャリ、と硬質な金属音が響き、空中に二条の光の軌跡が走る。

 黒と銀の鍵盤が俺を中心にして円環を描くように展開された。


 ——言葉はいらない。音で示す。


 襲い来る魔獣の爪が迫る。

 俺は指先をすべらせ、空中の鍵盤へと滑り込ませた。


加速(アレグロ)


 指先が鍵盤を打った瞬間、高音域の鮮烈な和音が空間を跳ねた。

 空気そのものが激しく振動し、高周波の波となって身体を包み込む。視界のテンポが加速し、迫る魔獣の動作をしっかりと認識する。


 音圧の波に乗り、間合いを詰める。

 指先が鍵盤を深く叩き込むと同時に、至近距離で高密度の衝撃波が炸裂した。


 ——ドォォン!!


 空気を伝う重低音の塊が一匹目の巨体を一直線に吹き飛ばす。


「……っ!? 鍵盤を弾いただけなのに……!?」


 少女の目が大きく開かれる。

 二匹目が横合いから巨躯を躍らせ、死角から襲いかかる。俺は鍵盤の上で指を滑らせた。


防壁(ソステヌート)


 低音が地響きのように重なり合い、音波が目に見えるほどの透明な壁となって空間に固定される。

 ガンッ! と激しい金属音が響き、魔獣の突進が完全に阻まれる。


 だが、残る三匹目が防壁の隙間を突き、死角から俺たちの頭上へと跳躍した。

 すかさず次の旋律へ移行しようとした、その時。


 ——ギィィン……ッ。


 洞窟の空気を引き裂くような、切なく、掠れた弦の音が響いた。


 少女が震える手で弓を擦っていた。

 その音は攻撃でも防壁でもない。空間の波形を細かく揺らす、不思議な旋律だった。


 跳躍していた魔獣が空中でビタリと固定される。

 強固な甲殻が音の波によって微細に振動し、内側から隙間を開いていく。


「いい音だ」


 鍵盤を奏でながら、短く告げる。


「……え?」

「今の音だ。君の音があったから、俺の音が届く」


 俺は指先を跳ね、全威力を集中させた。


強化(フォルティッシモ)


 俺の解き放った音波の槍が露出した隙間へと正確無比に突き刺さっていく。

 激しい衝撃音とともに魔獣は甲殻ごと撃ち抜かれ、洞窟の中に霧散した。


 静寂が戻る。


 ただ二人の荒い呼吸音だけが洞窟に残る。

 少女は握りしめた楽器を見つめたまま、自分の手元を凝視していた。


「……私、ただ弾いただけで……邪魔にしか……」

「違う」


 俺は鍵盤を背中へと収め、少女の前に屈んだ。


「君の音が敵の動きを止め、甲殻の隙間を作った。あれがなければ、一発では倒せなかった。……君の演奏が俺の音を導いたんだ」

「私の音が……?」

「君の奏でる曲は君だけのものだ」

「え……?」


 ぽろぽろと溢れ出す少女の涙を見つめると、懐かしい情景が蘇る。

『誰かの真似をする必要なんてない。お前の音を鳴らせ、カノン』


「誰かと比べる必要はない。君にしか出せない音があった。それを諦めるのはもったいない」


 しかし、少女は涙を拭いながら、力なく首を横に振る。


「……でも。でも、もう私を拾ってくれるパーティなんてありません」

「……」

「才能がないって捨てられた演奏家をわざわざ必要とする人なんて……どこにもいないんです。私、これからどうすればいいのか……」


 少女の言葉が洞窟に虚しく響く。

 居場所を失い、行くあてもなく、ただ冷たい床の上で自分の価値を問い続ける姿。

 同じだ。


 胸からの奥から熱がこみ上げてくる


「だったら……」


 俺は少女の目をまっすぐに見据えた。


「だったら、俺と一緒に演奏しないか」


 少女が顔を上げた。濡れた瞳が揺れている。


「……え? でも……私なんか……」

「君の音が必要だ」


 嘘偽りのない、本心。

 パーティの枠だの、効率だの、そんな下らない都合ではない。

 ただ一人の演奏家として、彼女の音を心から欲していた。


「君の音は、君にしか出せない。……だから、俺と一緒に来てほしい」


 少女は唇を震わせ、込み上げる感情を抑えきれないように、強く、大きく頷いた。


「……はい! はい……っ!」


 俺は立ち上がり、ダンジョンの奥深くへと続く暗闇を見つめた。

 本来なら、そこへ行ってすべてを終わらせるはずだった。


 だが、俺はゆっくりと背を向けた。


 隣を見る。

 小さな肩を揺らしながらも、しっかりと己の楽器を握りしめた少女がいる。


 この音をここで終わらせるわけにはいかない。


 まだ、終われない。


「……帰ろう」


 少女が驚いたように目を丸くした。


「えっ……? 攻略は……帰るんですか?」

「ああ。今日はもう帰る」


 俺はしっかりとした足取りで来た道を歩き始めた。少女が慌ててその背中を追ってくる。


「君、名前は?」

「アルコ……アルコです!」

「アルコ、いい響きだ。俺はカノン、これからよろしく」

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