塚谷到着
なんとか前向きになれたところで、僕の別宅の呼び鈴が楽しそうに鳴った。玄関に着くまでに、もう一度、さらに楽しそうに鳴る。単なる呼び鈴を、こんな風に操れる人は、僕の知り合いには一人しかいない。
「わざわざ来てくれて……」
ドアを開けると同時、いやちょっとフライング気味に話し出したのに、あっさり圧倒されてしまった。
「ひろしさーん、おまたせー。では、さっそく東京に向かいましょう」
塚谷は、疲れというものの存在を知らないのだろうか。知らないのだろう。
「ちょっとウチでお茶でも飲んでからにしない? 塚谷君のためにドーナツを用意してあるし」
「ええー、本当ですか? でも、ひろしさんの家に上がってお茶まで頂いたら、そのまままったりして動くのが億劫になって泊まることになりますよ。ひろしさんが私と添い寝したいのは分かりますけど……しょうがないなあ、おじゃましまーす」
「よーし、さっそく出発しよう。ドーナツは車の中で食べようね」
僕は速攻で着替えてドーナツを持って駐車場まで行き、塚谷に車の鍵を渡し助手席に乗り込んだ。都内での移動の時には、塚谷のというか事務所の車を塚谷に運転してもらっているので、安心して僕の愛車を任せられる。僕が運転に厳しいからなのか、塚谷は、いつも安全運転かつ同乗者を不快な気持ちにさせることはまずない。僕の運転は塚谷の運転を参考にするのもあるくらいだ。
「ひろしさんの車を運転するのは初めてだけど、なんて言うか、しっくりきますね。懐かしいような優しく包まれているような」
「それは良かった。じゃあ、いつも通りの安全運転でお願いね」
「はーい。発車しまーす。あっ、それと、信号待ちとかで止まったら、ドーナツを食べさせてくださいね」
「まかしといて。10個でも20個でも、塚谷君の口に放り込んであげるよ」
「ひろしさん、ひどい。まるで私の口がゴミ箱のような言い方をするなんて」
「そんな。ゴミ箱だなんて思ってないよ。アシカショーとかで魚をポイポイと口に投げ入れるのをイメージしただけだから」
「まあ、私もアシカもかわいいという共通点があるので、許してあげましょう」
言葉のチョイスや言い回しは大事だ。だけど、自分で言っていながら、アシカの例えは本当に正解だったのだろうか。深堀はしない方がいいだろう。
「話は変わりますけど、一応いつものように伊達メガネで変装はしてたんですよね?」
「もちろんしてたけど、やっぱり顔見知りの人は気づくんだね。話しかけられた時に別人のフリをすれば良かったのかもしれないけど、あの時はそんな余裕がないくらいに狼狽えていたみたいだね。ああいう肝心な時に芝居をできないなんて、僕もまだまだだと実感させられたよ」
「ひろしさんでも、そうなるんですねっと、はい、信号待ちでーす。ほら早くっ、ほーらっ。ひ、ひろしさんひどい。ドーナツを忘れてるじゃないですか。あーあ、もう青に変わりますー。食べられなかった……。この恨みは忘れないですからね」
「ごめんごめん。次は必ず。じゃあ、せっかく出したから……僕が、食べるしかないかな。えへへ」
「どうぞどうぞ。私は全く気にしないので、食べられるものなら食べてください。そのチョコをまぶしてあるドーナツは私の大好物ですけど、遠慮なく食べてください。いや、全然遠慮なんてしないでくださいね」
塚谷の声が1オクターブ下がっているのは気にせず、僕はチョコドーナツを口に入れた。疲れている時のドーナツは最高だ。このドーナツを食べるために働いていると言っても過言ではない。ドーナツを発明した人はもちろん、作っている人や携わっている人すべてに感謝だ。
塚谷に対して申し訳ない気持ちがなかったわけではないけど、僕は欲望の赴くままにドーナツを食べていた。すると、次の交差点の歩行者用の信号が点滅を始めるのが見えた。このままのスピードを維持しておけば余裕で通過できるはずだ。なのに、僕たちの乗っている車が減速を始める。結果、間に合わなくなり、泊まらざるを得なかった。
「いやー、やっぱり安全運転は気持ちがいいですねー」
塚谷はドーナツを食べたいがために早めに減速をしたことは、僕でなくても分かるだろう。それが証拠に、塚谷の目は、まるでドーナツのようになっていたのだから。
「はい、あーんしてますよー」
車が止まるが早いか、塚谷はドーナツを催促してきた。準備をしていなかった僕が、僕の食べかけのドーナツをあげると、一切躊躇せずに口にくわえる。さっきの仕返しとばかりに、勢いで僕の指までかじられた。絶対にわざとだと断言できるが、先に仕掛けたの僕が悪いのだろう。なので、我慢する……しかない。
大げさな話ではなく、まるまる半分あった僕の食べかけのドーナツをまるごと口に入れ、塚谷が上機嫌になったのは明らかだった。ドーナツがすごいのか塚谷が単純なのかは、どうでもいい。考える必要もない。この幸せな瞬間をただただ感じていたいと思う。
塚谷がしばらくもぐもぐしていると、信号が青になった。塚谷は、アクセルをそっと踏み込む。僕はと言えば、もう一つドーナツを出さずに、懐に忍ばせておいた缶コーヒーの蓋を開けた。静かに開けたかったけど、それはなかなか難しかったようだ。塚谷の恨めしそうな視線を一瞬だけ感じたのだ。気のせいかもしれないが。油断からくる脇見運転は危険な行為なのだから。
「ひふんはへふうい」
口の中にドーナツがまだ残っている塚谷が発した言葉は、文字に起こしたところで分からないが、僕にははっきりと理解できた。塚谷が脇見運転をした可能性は高いのかもしれない。それとも、音と香りで、缶コーヒーの存在に気づいたのだろうか。どちらにしても、今は運転に集中してもらおう。
「塚谷君のために、ちゃんとミルクティーを用意してあるから、次に停車した時に飲ませてあげるよ」
「ひろしさん、絶対ですよ」
塚谷の口の中にあったドーナツは、すでに天寿を全うしていた。
「はいはい。だから運転に集中してね」
「分かりましたー。ミルクティー、ミルクティー、ミルクティー……」
運転に集中できているのだろうか。変な詮索はしない方が無難だろう。塚谷なら……。
信じていた通りに、塚谷は次に停車するまで安全運転を続けてくれた。すかさず僕は温かい缶ミルクティーを開けてあげて手渡す。塚谷は2、3口飲んでドリンクホルダーに置き、すぐに出発した。さらに嬉しそうになっている。
もう少しで高速道路に入るタイミングで、塚谷はいい感じでリラックスしていた。僕の貢献度は大きいはず。なので、僕自身に、心の中で拍手を、そしてスタンディングオベーションを送った。一番貢献したのはドーナツで、二番目がミルクティーだとは分かっている。普通に考えれば、僕は三番目だろうか。だけど、今日だけは、僕を一番にして、自分に花を持たせてもいいだろう。今日は本当に大変だったから。




