回想の山田ひろし
「じゃあ、迷惑ついでに、もう一つお願いをしてもいいかな?」
「嫌です。私を何だと思ってるんですか」
「あっ、ごめんごめん。忘れて」
「もおー、冗談じゃないですか。ひろしさんは真面目なんだから」
いいように扱われているけど、お願いをする身なので、我慢我慢。
「普段は自分で運転して、撮影の前日か当日に東京まで帰ってるでしょ? だけど今日は特別に疲れたから、これ以上運転するのが辛いし、一晩寝ても回復してるかどうか不安なんだよね。それで申し訳ないんだけど、明日の朝は、東京の家じゃなくて、こっちまで迎えに来てくれないかな?」
「……」
「あれ? 塚谷君? 無理だったらいいから、気を使わないで断ってね」
この時間からは難しいけど、明日になれば高速バスか電車を使って帰ることができる。僕のわがままで塚谷に負担をかけるのは、普通に考えれば理不尽この上ない。負担のレベルも常識を超えているし。なのに、塚谷は断りづらいのだろうか。なかなか話そうとしない。塚谷なら、嫌なことは嫌とはっきり言うはずなのに。僕が疲れたアピールをしすぎたのだろうと思い、言った事を撤回しようとしたその時、塚谷が口を開いた。
「無理なわけないじゃないですか。めちゃくちゃ嬉しいです。いよいよ、ひろしさんの別宅に行けるんですね」
「ああ、塚谷君はうちに来たことがなかったかな?」
言われてみれば、塚谷は僕の別宅を知らなかったような。あれだけ好奇心の強い塚谷だけど、きちんと僕のプライバシーを尊重してくれるのだ。やはり優秀な敏腕マネージャーだと言っておこう。
「あるわけないじゃないですか。まさかどこの馬の骨とも知れない女を、私に断りもなく引き入れてるんじゃないでしょうね? やっぱり、ひろしさんの別宅を調べておくべきでしたね。でも、安心してください。これからは私が四六時中見張ってあげますね。それでは住所を教えてください」
前言撤回だ。住所も教えたくなくなってきた。だけど、もう後には引けないみたいだ。うしろ髪を引かれつつ少し声が震えながら、僕は塚谷に住所を教えた。
「分かりました。2、3時間で、いや、そんなにかからないかな。遅くとも22時までには着けると思うので、楽しみに待っていてくださいね」
「えっ! 今から来るの?」
「はい。今すぐ電車で行って、そしてひろしさんの車でトンボ返りしますね。そうすれば、ひろしさんは東京の自宅で寝られるじゃないですか。明日は体調ばっちりで撮影に臨めますよ。ひろしさんも早く私に会いたいと思うので、長話はこれくらいにして出発しますね。あっ、しばらくマナーモードにするので、電話は繋がらないですよ。それでは、私も出発しんこーう。ガチャ」
塚谷のあまりの身軽さに驚き、まるでうちわであおげば飛んでいきそうで、それを想像して一人で笑ってしまった。ここまでしてもらったので、せめて感謝の印として帰りがけに塚谷の大好物のドーナツをこれでもかと買って帰ることにした。
子供の頃には映画館で観るお金なんて持っていなかったので、もっぱらテレビで映画鑑賞をしていた。それでも十分に味わうことができた興奮、感動、驚愕。バス通学していた僕のヒーローは、永遠にバス運転士。
あんな大きなバスをまるで自分の手足のように颯爽と操るバス運転士と映画スターに、僕はいつしか憧れていた。悩みに悩んで進んだ道は、俳優だ。どんなに売れなくてもどんなに貧しくても、ずっと続けていくんだと心に誓う。
通行人の役から始まり、しばらくすると脇役の脇役だけど役名のある人物を演じさせてもらい、そして少しずつ少しずつセリフも多くなる。アルバイトをしなくても俳優だけで食べていけるようになった時は、夢が叶ったと本当に嬉しかった。僕が努力したのもあるけど、きっと事務所の社長が僕の知らないところで頑張ってくれたのだろう。
その社長の期待に応えるためにも、僕は真摯に俳優業に取り組み続けた。いつしか主役に準ずる役も度々もらえるようになる。これは主役を演じるようになるのは時間の問題かなと、期待も兼ねつつ客観的に見ても考えるようになっていた。ただ、俳優業の安定は良い事ばかりではない。たいして趣味のない僕は、時間を持て余し始める。意味もなく散歩をしている僕の近くをバスが通り過ぎただけで、子供の頃の夢を思い出させるには十分だった。
まるで見えない力に押されるように、その足で自動車教習所に向かい手続きしてしまった。この時は、バス運転士を目指したのではなく、純粋に免許を欲しただけだ。一応、この頃には僕に専属のマネージャーを付けてもらえていたので、事後報告だけど、あっさり承諾してくれた。気まぐれに暇つぶしで車の免許でも取るのだろうと軽く考えていたようだ。僕は当時、自家用車を所持していなかったので、普通自動車免許を持っていないと決めつけたのだろう。
でもまさか、大型自動車2種免許を取ろうとしているとは思っていなかった。というよりも、そういう免許があることすら知らなかったらしい。当時の、塚谷美樹は。
念願の免許を取得するだけで満足できるほど、僕は大人ではなかった。日に日にバス運転士への憧れが強くなるだけだ。だからって、同じくらい大好きな俳優業を辞めるという選択なんてあるわけがない。そんな答えのない問題で悩んでいると、セリフ覚えも悪くなりNGも出すようになっていた。僕の異変に気づいていた塚谷が心配して、無理やり相談に乗ってくれるのは自然だったのだろう。
塚谷はあっさりと解決策を提示した。塚谷に言われるままに、今のバス会社に応募すると、僕の熱意が通じたようで、見事に採用される。世界に一人しかいないダブルワーカーが誕生した瞬間だ。
ただ、塚谷は条件を出してきた。まずは、バスの仕事は多くても週に3日までにして、できるだけ先々までの勤務表を作る。それから、主役級の仕事は拘束時間が長いから、残念だけど来ても断る。最後に、掛け持ちで仕事をしているのは、何が何でも絶対に誰にも知られてはいけないと、強く強く念を押された。
しばらくは順調に進んでいた。あんな所で健二さんがバスに乗ってくるまでは。今になって考えると、あの時は別人のフリをすれば良かったのだろうか。だけど、それはそれで、やはり落ち着かなかったはず。寧ろ嫌な気持ちになったかもしれない。なんとなく、健二さんには嘘をつきたくないのだ。
起こってしまった事を、いつまでもくよくよしていても仕方がない。これから何をするかが大事なのだから。




