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路線バス運転士俳優山田ひろしの常識  作者: バスバスキヨキヨ


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イギリスへ出発

 イギリスに出発するまでに、僕と塚谷のパスポートは余裕を持って発行された。嫌な予感は取り越し苦労だったと、僕は一人密かに安心する。人生において、絶望的な不幸なんてそうそうないものだから、当たり前と言えば当たり前だろう。もう僕に不安は何もない。イギリスのあの赤い二階建てバスで、頭の中は埋め尽くされている。

 『路線バスに乗って一人旅』のスタッフと言っても4人だけだけどを含めて、監督及びその映画のスタッフ、あの事件以来久しぶりに会った健二さんとひなちゃん、ドラマの撮影の時以来またまた久しぶりのリカさん、そして塚谷と僕の、みんな一緒に日本を出発した。僕自身にいろいろあって随分時間が流れたように感じていたが、実際にはそれほどでもないので、健二さんひなちゃんとリカさんも全く変わっていない。唯一心配だったのは、ひなちゃんだ。被害者だったひなちゃんが全く変わらずに元気だったのは、僕が路線バス運転士の立場を失ったことなんて比べものにならないくらいに嬉しい事だった。

 搭乗手続きも終わり、後は飛行機に乗るだけだ。飛行機は近いが、あの赤い二階建てバスはまだまだ先にある。なのに、まるで飛行機の中にあの赤い二階建てバスがあるかのように、僕は気が急いていた。そんなだから、待ち時間が長く感じる。

 ここに来ると、僕がこうなると塚谷は分かっていたのだろうか。塚谷が手作りの旅のしおりを配り始める。そう言えば、監督に頼まれ塚谷が旅のしおりを作る担当に抜擢されていたのだ。目を通した僕は一瞬にして、幸せな気分になり、あの赤い二階建てバスの存在すら忘れ、旅のしおりに没頭させられた。

 台本を読み込む以外には自由気ままに過ごして今日を待っていた僕と違って、塚谷は仕事が山のように溜まっていたはずだ。打ち合わせをした日の塚谷のデスクからして、間違っても暇を持て余してはいなかった。なのに、こんな傑作と言っていいほどの旅のしおりを作るなんて。ついつい尊敬の眼差しで塚谷を眺めてしまった。ただ、これを作っている間に塚谷のデスクが悪い意味で繁栄しているのかと思うと、笑いを堪えるのが苦しくもあった。

 旅のしおりで楽しんでいると、時間の流れも速く感じたようだ。気づけば、周囲の人が機内に向かっている。監督や健二さんですら特別扱いされず、僕たちのグループみんながエコノミークラスに。健二さんは、ひなちゃんを喜ばせたいがためにファーストクラスに乗るかもと思っていたが。おそらくだけど、ひなちゃんが、みんなと一緒がいいと言ったのだろう。

 それでも、健二さんの隣りにひなちゃんが座れば、まだ良かった。誰かが決めたのか、たまたまそうなったのかは分からないが、健二さんの隣りは監督が座ることになってしまった。ちなみに、塚谷の隣りには、リカさんが座った。ということは、僕の隣りには、スタッフさんの誰かとかではなく、ひなちゃんが座るしかなかった。健二さんは恨めしそうに見ていたと思うが、僕はあえて確認しない。

「ひろしさん、久しぶりだね。たまにバスに乗っても、全然ひろしさんに会わないから心配してたんだよ。もう辞めちゃったの?」

「ひなちゃんにまで心配かけてたんだね。正直に言うけど、あのバス会社は事情があって辞めるしかなかったんだよ」

「そっか。大人の事情ってやつだね。でも、元気そうで安心したよ」

「またいつか、バスを運転できるようになれるからね。それに、今回の映画はバス関連だし。さらに、イギリスをバスで旅行できる番組にまで出られるんだから。今は楽しくてしょうがないよ」

「やっぱり、美樹ちゃんのおかげだよね? それなのに、美樹ちゃんの給料って、ドーナツだけというのは本当なの?」

「いやいやいや、給料がドーナツだなんてありえないよ。大人は、仕事をしてお金をもらって、そして生活したり好きな物を買ったり好きな事に使ったりするんだよ」

「ひろしさん? そんなことくらい知ってるに決まってるでしょ。子供のたわいない冗談を真に受けてどうするの」

「そ、そんなこと分かってたよ。冗談にそのまま乗っかるのも、どうかと思って。ひなちゃんの裏をかいただけだから。ほ、本当だよ……」

「ひろしさんは負けず嫌いなのかなあ? しょうがないから、そういうことにしておいてあげるよ。いじけてふてくされて『路線バスに乗って一人旅』に臨まれても、気を使うもん」

 子供相手にムキになる僕が幼稚なのか、ひなちゃんが大人びているのか、結論は出さずにしておこう。ただ、子供の相手をするのが苦手なはずだった僕が、こんなにも自然体でいられるなんて……。おそらく僕が人間的に成長したのだろう。ひなちゃんが僕の扱いに長けているとかではないと……思い込もう。

「ということは、ひなちゃんも『路線バスに乗って一人旅』に出るの?」

「すごく迷ったんだけど、パパが駄々をこねるから。私が出ないなら、『路線バスに乗って一人旅』だけじゃなくて『名バス運転士ホームズ』にも出ないって。本気じゃないとは思うけど、もしそうなったら、ひろしさんと美樹ちゃんがかわいそうでしょ。あっ、私は『名バス運転士ホームズ』にはもちろん出ないから、安心してね。パパが監督さんにゴリ押しで私を出させようとしてたんだよ。だけど、この前のドラマ版に出たのに、違う役で映画版に出るのは、観る人を裏切るようでしょ? きちんとじっくりパパに説明したら、最終的には分かってくれたよ」

 塚谷だけでなく、ひなちゃんまで僕の知らないところで奮闘してくれていたのかと思うと、涙が出そうになってきた。だけど、ひなちゃんを困らせなくないので我慢する。

「そんなことがあったんだ。おかげで、健二さんが『路線バスに乗って一人旅』に出てくれるんだね。さらに出演料をいらないって言ってくれたんだから、ひなちゃんにはいろいろな人が感謝しているよ。僕も……」

「そんな……。私なんて大した事してないよ。それに、『名バス運転士ホームズ』の映画版では、きっちりと出演者をもらうみたいだし」

「まあ、それは当たり前のことだから。ドラマ版では無報酬だったけど、それは例外中の例外だし。それでも変わらずすごい演技をするんだから、やっぱり健二さんは本当に素晴らしい俳優だよ。そう言えば、あの時のひなちゃんも無報酬だったの?」

「当たり前でしょ。ど素人の私が、あんな楽しいドラマに出られてだけで幸せだよ。だけど、今回の『路線バスに乗って一人旅』は出演料を要求しちゃったの。よかったんだよね?」

「いろんな意味でひなちゃんは貢献してるんだから、もちろんだよ。ひなちゃんの出演料は、ドーナツ何個なの?」

 ここぞとばかりに、さっきの冗談を踏まえた冗談で返した。なのに、ひなちゃんが真顔になってしまった。僕はやってしまったと思ったけど、別の意味でやってしまっていたのだ。

「どうして私の出演料がドーナツだって分かったの? ひろしさん、なかなかやるじゃない」

 これは、冗談に冗談で返されているのだろうか。どうなんだろう。この僕が、たかだか11歳の子供に心理戦で負けるわけにはいかない。いや、負けたくない。

「ま、まあね。さっきのひなちゃんの冗談が、ここに繋がってるって、すぐに分かったよ」

 こう答えれば、どちらとも取れるような気がした。大人ってずるい……じゃなくて、賢いと自画自賛だ。

「正確には、『路線バスに乗って一人旅』の中で、美味しいドーナツを売ってる店に絶対に行きたいって言ったんだよね。イギリスには美味しい食べ物のイメージがないけど、それでもチェーン店じゃない美味しいドーナツ屋さんを一緒に頑張って探してね」

 健気なひなちゃんと塚谷のためにも、美味しいドーナツ屋さんを絶対に見つけるんだと、僕は静かに燃えていた。

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