イギリスではバス三昧?
僕も監督も騙されたのかもしれない。しかし、こんななかなかの図々しいお願いを言えない僕の気持ちを代弁してくれただけで、例え塚谷の欲望が少しくらい入っていてもいいだろう。
「でも、僕たちが一緒に行って、監督やスタッフの皆さんの仕事のじゃまにならないんですか?」
「うーん、邪魔にはならないとは思うけど、相手もできないかな。私たちだってプロだから、イギリスでの1分1秒を無駄にはしないからね。だから本音を言えば、私たちが仕事をしている間は、ひろし君たちはイギリス観光をして英気を養っていてほしいけど。特にひろし君は、最近大変な目にあってるでしょ」
僕が答えようとした時に、思いがけず塚谷の携帯電話が鳴った。塚谷は部屋の隅の方へ行って何やらヒソヒソと話し始めたので、話して話せなくもない。それでも、僕と監督は、なんとなく黙り込む。路線バスを運転できなくなった事実を思い出して、何と答えようか迷ったところだったので、タイミングが良かったというべきだろう。
塚谷は2、3分電話していただろうか。さっきまでのしょげた感じがすっかりなくなり、堂々とした足取りで戻ってきて、これでもかといわんばかりの仁王立ちで間を作った。電話の内容を聞くべきなのだろうかと、僕は考えたが、答えが出る前に塚谷が嬉しそうに話し出したのが先だった。
「イギリスでは、ひろしさんも仕事をしてもらいますよ。遊んでいいのは、私だけー」
「えっ? 制作に関して素人の僕が下手に何か手伝おうとしても、できることなんてないよ」
「制作に関しては、素人で役立たずで足手まといにしかならないでしょうね」
「そこまでは言ってない。でも、仕事って……」
「それは『路線バスに乗って一人旅』の特別バージョンのことに決まってるじゃないですか」
「路線バスに乗って一人旅? イギリスで?」
「はい。まあ、一人旅ではなくて特別バージョンなので、健二さんとリカさんも一緒ですけどね」
「ええー! 健二さんとリカさんは知ってるの?」
「もちろんですよ。おまけに、健二さんとリカさんはノーギャラで出てくれるんですよ」
「ええー、どうして?」
「そ、それは……健二さんは、ひなちゃんも一緒に連れていってもいいですよと言ってあげたら、イチコロでした。リカさんは、『楽しそう』の一言だけです」
その様子が頭に浮かんで、十分に納得できた。しかし、大物で売れっ子の二人が……。いろんな意味で良いのだろうか。
「それでも、そんな企画がよく通ったね?」
「そりゃあ、通りますよ。今をときめく、ひろしさんですよ。おまけに旅費や滞在費はおろかギャラまで必要ないってなったら、番組のコンセプトが少々変わっても賛成してくれるに決まってるじゃないですか。さらにですよ、そんなつもりはなかったんですけど、映画の宣伝を好きなだけしてもいいって言ってくれて。こんなウインウインウインなことって、あるもんなんですね。あっ、私もタダでイギリスに行けるから、ウインウインウインウインになるのかな」
「まあウインの数は分からないけど、始まりは美樹だから、美樹は正当な報酬を受け取ってるだけだよ」
「いえいえそんなそんな。そんなことよりも、先方は正確な日程を知りたがってるので、監督、今日中にすべて決めますよ」
「まかしといて。実は塚谷さんから話があった時点で、日程は決めてあるんだよね。本当はすぐに行こうとしたけど、ひろし君をはじめすぐに動けるのかなかなか把握できなかったから。私たちは海外もよく行くから全員パスポートを持ってるけど、ひろし君はどうか分からないでしょ?」
「すいません、その通りです。一緒に行く必要のない僕のために、予定を狂わせて本当に申し訳ないです」
「うそうそ、冗談だよ。今やってる仕事がまだ終わってないからって、スタッフに全力の力づくで止められてしまって」
言われてみれば、確かにそうだ。監督がそんなに暇なわけがない。そんななのに、この台本を作ってくれたなんて、驚きだし感謝だし尊敬もある。監督のことだから決して片手間で作ってないし、今現在関わっている仕事だっていい加減にするわけがないのだから。
ということは、ここ何日かは寝る間も惜しんで働いていただろう。なのに、そういう感じを微塵も見せない監督って、人間を超越しているとしか言いようがない。行動力も想像力も。
話し合う前から日程だけは決められていたし、制作スタッフと演者は基本的に別行動なので、すんなりと話し合いは終わった。それはそうだ。変わったのは、人数くらいだったのだ。『路線バスに乗って一人旅』のスタッフが、僕たちの都合に完全に合わせてくれたのが大きかったが。なにより、『路線バスに乗って一人旅』には台本が必要がないし。
というわけで、関係者全員一緒に日本を発ち、イギリス滞在予定の2週間の何日間で『路線バスに乗って一人旅』のロケを行うというラフな案を決めて打ち合わせは完了となった。ロケが何日で終わるか分からないが、自由時間はたっぷりあるはずだ。何をしてもいいのだろうけど、何をするか僕には分かっている。
要するに、2週間ずっと、気の済むまでイギリスのバスに乗ることになるのだ。当たり前だけど、乗客として。本音を言えば、映画の方の撮影はないので、運転できないことは心残りと言えば心残りだけれど。日本でならまだしも、海外ということで納得しておこう。こっそりと国際免許まで取っておいたなんて、口が避けても言うつもりはない。
イギリスでのバス三昧を想像していると、忙しい監督は席を立ち帰り支度を始めた。もう少し話したいのは山々だけど、引き止めるようなバカな真似はしない。それを察してくれたのか、言い忘れていた事を思い出したのか、監督が応接室のドアノブに手をかけながらも立ち止まった。
「あっ、それと、台本は仮りだから。イギリスに行ってから、訂正や追加も多々あると思うよ。まあ、大筋は変わらないから、しっかりと頭に入れておいてね。ひろし君なら言うまでもないか。それから、ひろし君なりにああしたいとかこうしたいとかがあったら、遠慮しないで言ってね。そして、塚谷さん、本当に旅行のしおりを任せても大丈夫?」
「もちろん大丈夫です。楽しいしおりを作るので、期待して待っていてくださいね」
「ありがとう。塚谷さんも、遠慮しないで好きなようにしおりを作ってね」
「監督、大丈夫です。美樹の辞書に遠慮という言葉はありません」
つねられているお尻の痛みよりも、これから始まるたくさんの楽しいことの方が圧倒的に大きいので、痛覚が無くなったのかもと錯覚しながら笑顔の監督を送り出した。それからすぐに、心を込めて塚谷にお礼を言うと、柄にもなく少し照れくさそうにしている。全く見せないが、相当頑張ったのだ。
それでも、ぎりぎりの攻防の末にほんの少し前に話がまとまるくらいだった。『路線バスに乗って一人旅』のスタッフから電話がかかってくるまでは気が気でなかったに違いない。イギリス旅行では、恩返しをきっとしようと決めて、ふと気づいた。
「美樹、『路線バスに乗って一人旅』の撮影以外は、本当にただの観光旅行でいいの? まだ何か隠してる仕事があるんじゃ?」
「さすがはひろしさん、と言いたいところですけど、予定している仕事はそれだけなんです。なので、余った時間は観光だけです。ひろしさんがずっとバスに乗りたいなら、観光そっちのけで、それでもいいでよ。ちなみに、どこか行きたい所はありますか?」
「なくはないけど……」
「どこですか? 一応言ってみてください。ひろしさんの辞書、じゃなくて人生に遠慮なんてあるわけがないんだから」
さり気なくさっきの仕返しをされている。だからといって、僕はやり返さない。間違っても塚谷のお尻をつねるわけにはいかない。気に障る部分は聞き流して、素直に気になっていた所の名前を発するのみだ。
「ロンドン交通博物館って、知ってる?」
「初耳ですけど、そんなのがあるんですね」と言うと、塚谷は何か黙考し始めた。僕は考えはしないが、黙って待つ。
「いい事を思いつきました。どうせなら『路線バスに乗って一人旅』で、そこに行きましょうよ。ああー、さらにいい事を思いつきましたよ。もうこうなったら、『路線バスに乗って一人旅』のスタッフさんの時間が許す限り、イギリス中をバスを使って巡りましょう。さっそく交渉してきますね」
塚谷は交渉と言ったけど、塚谷の意見が100パーセント通ることが目に見えていた。なので、イギリスでの2週間は毎日が『路線バスに乗って一人旅』の仕事になるのだろう。どうせ毎日バスに乗るつもりだったので、嬉しい誤算というものだ。
大好きなバスに乗るという仕事をして観光もして、幸せすぎる自分が恐くなってきた。何か嫌な事が起きなければいいのだけれど。




