イギリスでの仕事はどんどん楽しくなっていく
イギリスに到着すると、僕たち全員は、まずホテルに向かった。観光をするにはもう遅い時間だったし、それなりに荷物もあったのだ。それになにより、仕事で観光を十分に満喫するのだから、何も焦る必要はない。そして、旅の疲れも気にせず、そのままホテルの中のレストランに向かい打ち合わせが始まった。
打ち合わせは、もちろんそれぞれ別々に行われる。それぞれとは、『名バス運転士ホームズ』チームと『路線バスに乗って一人旅』チームだ。僕は言うまでもなく役者陣全員が、『路線バスに乗って一人旅』チームのテーブルにいる。
打ち合わせといっても、『路線バスに乗って一人旅』のテーブルでは仕事の話はそこそこにして、食事をしながら和気あいあいと楽しく過ごしていた。行き当たりばったりが売りでもあるこの旅番組は、特別版でさらに外国での撮影だからって、特別な事は何もしないのだ。
それでも、最優先事項と言っていいくらいの、ひなちゃんの報酬である美味しいドーナツの件は忘れずに話に入っていた。いくつかのドーナツ屋さんを、事前にスタッフの人が調べてくれたらしい。断言はしなかったが、きっと調べてあるはず。番組としては、できれば出演者に自力で見つけてほしいのが本音なのだから。なので、どうしても時間的に厳しくなってきたら、苦肉の策としてスタッフが案内してくれるのだろう。時間的に厳しくなった後なので、寄れるドーナツ屋さんの数は限られるが。
それを聞いたひなちゃんは、悲しむどころか嬉しそうになり俄然やる気が出てきたようだ。健二さん以外の皆は一緒になって喜んだのは言うまでもない。どうしても見つからない時はスタッフの人が助けてくれるんだからと、ひなちゃんに励まされている健二さんは、本当に心底甘いただの父親だった。
通訳を兼ねる英語がペラペラのスタッフが一人いるので、言葉の壁は気にしないで現地の人にどしどし質問すれば何でも簡単に見つかるが、極力頼らないようにも付け加えられた。スリルやハプニングを視聴者は期待しているのだから。
そして、健二さん以外の人にとっての楽しい打ち合わせは終わった。健二さんの名誉のために言っておくと、健二さんはただの親バカなだけだ。自分が意味もなく歩き続けることに対しては、何の不満も持っていない。仕事では決して妥協しない人なのだから。例えそれが無報酬だとしても。
とはいえ、健二さんとひなちゃんは初めての家族旅行ということもあり、楽しそうに去っていった。その後ろ姿は、日本を代表する俳優の面影が全くない。だけど、僕までも幸せな気分になっている。いや、僕だけではないようだ。同じテーブルで打ち合わせ兼食事をした全員が、幸せを分けてもらっていた。
残念ながら、いつまでも幸せの余韻に浸っていられない。僕は、ここに遊びに来たのではなく仕事をするために来ているのだ。明日からの撮影に備えて、部屋でゆっくりして体調を万全にしておこう。
と、久しぶりの仕事を成功させるために、僕も健二さんに続いて席を立った。だけど、塚谷と僕にはまだ少し話があると、ディレクターに呼び止められる。イギリスなだけに、スコッチウイスキーで前祝いでもしたいのだろうか。一瞬、仕事に臨むプロ意識に水を差されたような気がしたが、すぐに思い直す。なんとなく心当たりがあったのだ。おそらく、あの件だ。打ち合わせは、まだ続くのだ。
なのに、ディレクター以外のスタッフは当たり前に解散となった。ディレクターと僕と塚谷がいれば、完結する打ち合わせなのだろう。それでも、なぜか、リカさんが一緒に残ってくれた。驚いたことに、マネージャーもスタイリストも一緒に来なかったので、寂しかったのかもしれない。
ディレクターは、そんなリカさんを気にもとめず、話し出した。リカさんも当たり前に聞き入っている。
「ひろしさん、なぜ残されたのか、薄々気づいてますよね?」
「はい。ロンドン交通博物館の件ですよね? やっぱり、許可が下りなかったんですか?」
「まさか。そんなことあるわけないじゃないですか。山田ひろしの名前を使えば、世界中のどこにでも入れますよ。軍事基地でも行けそうな自信がありますね。まあ、冗談はそこそこにして、本題に入りますね。ひろしさんも知っているとは思いますけど、ロンドン交通博物館というのは、年中いつでも開いてるんです。だけど、そこに収まりきらない車両なんかが置いてある倉庫が少し離れた所にあって、その倉庫が年に数回、一般の人に公開されてるんです。ひろしさんなら、行きたいですよね?」
「はい、是非是非是非。わざわざそれを言うってことは、僕たちが滞在している間に公開されてるんですね?」
「そうなんですよお。最初は『路線バスに乗って一人旅』の中で寄る予定で進めてたんですけど、今言った倉庫も行ってとなったら、正直一日がかりになるんです。大げさではなく、その倉庫は皆さんの想像しているよりも100倍大きいと思っていいですよ。まあ、撮影には10日以上取ってあるので、一日をそこで使っても差し支えはないんです。問題は、放送時間なんです。今のところ、2回に分けて5、6時間の予定で、すごく面白いものができても3回で9時間が限界かなと。そうなると、せっかくのひろしさんおすすめのロンドン交通博物館の魅力が伝えられそうもないんですよね。そこで相談なんですけど、このロンドン交通博物館は別の番組にしようと思うんですけど、いいですか?」
「別の番組? どういうことなんですか?」
「ちょっとマニアックになるんですけど、ひろしさんが案内役のようになって、ロンドン交通博物館だけをただひたすら視聴者の方に観てもらうような感じにしたいと。たぶん数字はそんなにというか全く取れないかもしれないですけど、ひろしさんがよければ。どうですか?」
「うーん、僕としてはロンドン交通博物館に行けさえしたら、放送とかははっきり言ってどうでもいいんですよね。そしてそのロンドン交通博物館には色々な乗り物が展示されていて、鉄道車両とかもありますけど、僕が興味あるのはバスだけなんです。だけど、案内役となったら、まんべんなく紹介しないといけないですよね? 車両全般好きな人はもちろん鉄道好きな人はまあまあいるから、バスにはあまり時間を取れないんじゃないですか?」
「大丈夫です。ちょっとマニアックになると言ったのは、そこなんです。マニア垂涎のロンドン交通博物館にせっかく来ていながら、ほとんどバスしか見せないって、なかなか攻めてると思わないですか? 放送もどんなに頑張っても2時間もらえるかどうかなので、広く浅くよりも狭く深くでちょうどいいと思うんですよね。バス以外の車や列車が出てくるのを期待して観た人は、裏切られたと感じるかもしれないですけど」
「2時間もロンドン交通博物館のバスだけを見せるなんて、あなたもなかなかのマニアですよね」
「そうなんです。実は、この『路線バスに乗って一人旅』だって、僕の企画なんですよ。だから、本物のバス運転士であるひろしさんと一度ならず二度までも一緒に仕事をできるなんて、本当に幸せですよ。あっ、僕のことよりも、そういうことで良いっていうことですね?」
「あ、あのー、ちょっといいですか?」
僕が返事をしようとしたその時、それまで黙って聞いていたリカさんが、いきなり口を挟んだ。僕は、リカさんが何を言いたいか想像できているけれども。
「どうしたんですか、小野さん?」
「私もロンドン交通博物館に行きたいんですけど……。ついて行ってもいいですか?」
「もちろん構いませんよ。どうせなら、ひろしさんと一緒にロケをして欲しいくらいですけどね」
「えっ! いいんですか?」
「えっ! 出ていただけるんですか?」
「はい、喜んで。ありがとうございます。私も、バスが好きなんですよ」
「そうだったんですか。なんだか嬉しいです。あっ、それで、もう一度確認ですけど、ひろしさんも出ていただけますよね?」
「もちろんです。すごく楽しみです」
「ありがとうございます。でも……。せっかく、小野さんもバス好きなんだから……。ひろしさんが案内役というのは止めましょう。展示してある色々なバスを見て、2人で意見や感想を言い合うようにしましょうか? 無理して褒めたりとかしなくてもいいし、視聴者の事を気にしなくてもいいので、思ったことをそのまま言ってください。たぶん館内にはガイドもいるので、聞きたい事があれば見学者の気分で普通に質問してもいいですよ。ただ一つだけお願いしたいのは、主役はバスということでいいですか?」
僕とリカさんに、反対する理由なんてあるはずもない。それどころか嬉しいだけなので即答した。




