路線バス運転士引退?
部屋を出た僕は、まず塚谷を探した。探すまでもなく、すぐそばのイスにかけて、連絡を受けて来ていたバス会社の人と何やらヒソヒソと話していた。僕が吸い込まれるように近づいていくと、気づいたバス会社の人が先に話しかけてくる。いつもは元気に話しかけてくれる人なのに、神妙な感じに。バスジャックがあったし事後処理も大変なのだから当然だろう。
ただ、今は、僕に言わなければならない事を、どのように切り出そうか悩んでいるように、僕は感じてしまった。それは、僕がバス運転士を辞めなければならない事だというのは理解しているつもりだ。
「山田君。いや、山田ひろしさん。なんと言うか……驚いた事が多すぎて……何から話せばいいかなあ?」
「そうですね……。まずは、咄嗟のこととはいえ、自己判断で公共の乗り物を用途以外に使ってしまったことは謝らせてください。言い訳が許されるなら、もしあれを見過ごして後で警察に電話をしても手遅れになるかもしれないですし、あの時はそんな天秤にかけるよりも体が先に反応してああいう結果になってしまいました。あの時刻のバスに乗る予定でおられたお客さんにはもちろん迷惑をかけたと思いますけど、やはり代替えバスを出したんですか?」
「いや、もうあの時点で代わりのバスを出すよりも、次のバスに乗っていただいた方が早いと判断したから。それでも多くのお客さんに迷惑をかけたのは事実だね。だけど、山田君の判断は正しかったよ。もしそうしなかったら、事件はまだ解決してなかったかもしれないし、最悪の結果だってなかったとは言えないのだから。だから、誰が何と言おうと、私は山田君がとった行動を支持するよ」
「ありがとうございます。それと……僕が役者の山田ひろしだというのを黙ってバス運転士をしていたことは申し訳ないとは思うんですけど、会社を信用していないとかそういうのではないんです。純粋に路線バスを運転したかったので、変に気を使われるのは嫌だったし、皆さんに余計な心配事を増やしてほしくなかったんです」
「山田君の言わんとしていることは分かるよ。会社としては、話題になって単純に売り上げだけを考えたら、大歓迎だけど。でもやっぱり、マスコミの人やファンの人が意味もなくバスに乗ってきたりバス停の周りでうろちょろされちゃうと、いつも使っていただいているお客さんや同僚の運転士に多大な迷惑がかかるからね」
「そうですよね。それで、勝手なお願いなんですけど、今日で退職させてもらえませんか? 後日、挨拶を兼ねて、退職届や支給されている制服などを持っていくので。突然で本当に申し訳ございません」
「なんとか今まで通りに山田君にバスの仕事を続けさせられないかと、こちらの塚谷さんに頼まれてたけど……。事情が事情なだけに、受理せざるを得ないですね。本当に心の底から残念ですよ。2年ほどだけど、俳優の山田ひろしさんではなく、バス運転士山田広志君に感謝しますね。ありがとうございました」
この瞬間、僕はバス運転士ではなくなった。役者の山田ひろしとして今すぐしないといけない仕事があるので、悲しんでいる場合ではないが。
まずは、大泣きして酷い顔になっていた塚谷に顔を洗ってくるように言うと、ものすごい力でお尻をつねられた。様々な種類の涙を堪え、僕も少し身だしなみを整えて、塚谷が戻ってくるのを待つ。一人でも記者会見に臨めただろうけど、初めてのことでもあり、塚谷にそばにいて欲しいのだ。それできっと上手くいくと確信があった。
大急ぎでこっちに来た塚谷は、メイク道具なんて持ってなくて、恥ずかしそうにノーメイクで戻ってきた。恥ずかしがる要素がどこにあるのか、少なくとも僕には分からないが。ただ、きれいだと思っただけだ。
そんな塚谷は、すっかり忘れていた健二さんとひなちゃんの事を、まず教えてくれた。ひなちゃんは健二さんに説得された末に、健二さんに連れられ病院に行ったらしい。怪我などはしていないはずだけど、それを聞いて安心できた。特に精神的に辛かったと思うので、何らかのカウンセリングは受けた方がいいかもしれない。
健二さんとひなちゃんは、見送る塚谷に僕への言伝をして、後日改めてお礼がてら一緒にごはんに行くように半強制したそうだ。そんな事と言ったら、健二さんに怒られそうだけど、軽く返事するに留めておいた。今の僕は、記者会見の事で頭がいっぱいだったのだ。
記者会見は、警察署の会見場で行われるのが決まった。警察署のご厚意だ。警察による事件の会見が終わり次第、そのまま会見場を使わせてもらえるらしい。なので、もうしばらく待たなければならないようだ。
何もしないで、ただ待っていると、ついつい路線バス運転士の事を考えてしまう。考えたところで手が届かないのだけれど、忘れるなんて不可能だ。忘れる必要もない。僕にとっては何者にも代えがたい素晴らしい思い出だ……。
こんなにも早く思い出になるなんて、ほんの数時間前までは想像すらしていなかった。でも、まさか、あんなドラマのような出来事が……。いや、もう過ぎたことだ。今日の自分がした事は全く後悔していないし。むしろ、僕があの場面に出くわして良かった。それに、これでバスに乗れなくなるのかと言えば、必ずしもそうではないのだ。
監督が頑張って『名バス運転士ホームズ2』を考えてくれたなら、僕はいつでもバスを運転できるのだ。さらに、これが長い長いシリーズ化をされれば、半永久的にバスに乗れるのも確約される。監督次第と言えば監督次第だけど。いや、いざとなれば、僕が思い切って、路線バス運転士を主人公にしたドラマを考えればいい。ドラマなので、実際のバス運転士の仕事のやりがいとは雲泥の差になるかもしれない。だけど、バスに全く乗れないのに比べたら、天と地ほどの差がある。
一人そういう事を考えていると、僕はニヤけていたのだろう。塚谷が心配そうに聞いてきた。
「ひろしさん、頭がおかしくなってきたんですか? バスに乗れなくなったのが、よっぽどショックなんですね。後でドーナツを買ってあげるから楽しみにしておいてください。ドーナツは永遠ですよ」
「大丈夫だよ。でも、ドーナツは約束だからね」
「はい。でも、どうして、そんなにニヤニヤしてたんですか?」
「ニヤニヤしてたかなあ?」
「はい。気持ち悪いほどに」
「美樹! もうすごく傷ついた。絶対に教えない」
「もおー、器が小さいなあ」
「あー、もう。ドーナツとお好み焼きを好きなだけ食べさせてあげると言われても、絶対に教えない」
「いいですよ。ひろしさんが何を考えてたかくらいは分かるので」
「いやいや、僕はそんな単純ではないよ」
「そうですね。当面の私の仕事は、監督を急かして『名バス運転士ホームズ』の続編をたくさん作ってもらうようにすることですかね? いやいや、ひろしさんは、そんな単純ではないのかなあ?」
「ま、ま、まさかね」
「まあ、いいでしょう。それと、ほとぼりが冷めた頃に、また別のバス会社を探してあげるので、機嫌を直してくださいね」
「え? そんなことができるの?」
「同じバス会社は、同僚の方たちがひろしさんの事を知ってしまったので、無理です。だけど、他のバス会社なら、またまた伊達メガネ一つでも誰も気づきませんよ。それでも、一年くらいは役者の仕事に専念してくださいね。一年も経てば、今回の事件の記憶もだいぶ薄れると思うので。東京近郊の融通の利くバス会社を、私が選んであげますよ」
「ありがとう。じゃあ、それまではどんな仕事でもするから、時間の許す限りできるだけ引き受けちゃって」
「そんなこと言っていいんですか? ドラマが大好評だったうえに今回の事件で、ひろしさんのネームバリューは急上昇してるから、365日間毎日働き詰めになりますけど」
「そうなったら、美樹も365日間休みなしだよ」
「私は、ひろしさんと365日間一緒なら、喜んで働きますよ」
「そっか。じゃあ、365日間ずっと一緒にいよう。だけど、仕事はほどほどにしておいてね」
「はい」




