今は、ひたすら我慢だ
「おい、すぐにバスを出せ」
ここで下手に抵抗しては、ひなちゃんの命に関わる。僕は何も言わず、この男の言う通りにバスを発車させた。スムーズに。うん、少なくとも僕は大丈夫なようだ。普段通りにバスを操れると確信を持てた。
それに、またもや他に乗客がいない事が幸いしている。協力して犯人を取り押さえる人がいないという点では残念だ。だけど、巻き添えになる人がいない事の方が、今の僕には大きかった。ひなちゃんには申し訳ないが。だからこそ、絶対に僕が命にかえてでも、ひなちゃんを助けるんだ。ひなちゃんが知り合いとかではなく、このバスを運転しているバス運転士としての責務として。
こんな時なのに、僕は自分でも驚くくらいに冷静だった。まずは、この男を刺激しないように、言う事を黙って聞くのが賢明だと判断する。恐怖のあまり声も出せないひなちゃんを安心させてあげるために、話しかけたくて仕方がないが。このような状況になったら大人でも恐いだろうに、ひなちゃんはまだ小学生なのだから。今は、「きっと助けてあげる」と心の中だけで話すしかなかった。何度も何度も。
この男の命令で、通常のバス路線を逸れて、バスはしばらく闇雲に走っていた。この男の計画とは大幅にくるっているようで、こんな目立つバスでどうやって逃走するか考えあぐねている。この男にしたら、ひなちゃんの逃げ足もだけど、まさか運行中のバスがひなちゃんの手助けをするなんて大誤算もいいところなのだろう。かといって、僕を痛めつけてからバスを降りたくても、そのためには一瞬でもひなちゃんを離さなければ難しい。そのすきに、ひなちゃんに逃げられては元も子もない。僕が五体満足の状態で、この男がひなちゃんを連れてこのバスから逃げるなんて論外だ。この男だって分かっている。
「おい、方向幕を回送にしろ」
この男が思い出したかのように発した。いくらかは冷静さを取り戻したのだろう。そして、方向幕という言葉を知っているということは、少しはバスの知識があるのかもしれない。免許を持っているかどうかは別として、バスを運転できる可能性だって視野に入れておくべきなのかもしれない。
僕に何かがあっても、この男は痛くも痒くもないなんてことがあるのだろうか。僕が良くない事を考えていると、この男が言葉を続けた。
「おい、無線とかを使って外部に連絡をするんじゃないぞ」
少しではなくて、まあまあバスのことを分かっているようだ。気になったのは、「無線とか」の「とか」だ。それは携帯電話のことだろうか。それとも『SOSボタン』のことだろうか。あるいは、両方とも。
携帯電話はさすがに目立つが、SOSボタンならさり気なく押せるのだけれど。しかし、この男がSOSボタンの存在を知っているのかはっきりしないのに、使うのは危険だ。少なくともこの男が僕のすぐ横で執拗に目を配っている間は、押さずにおこう。
この男にとっても僕にとっても進展がないまましばらく経った時、ある程度予想していたことが起きた。バス会社から無線で僕の運転しているバスが呼ばれたのだ。予定時刻を大幅に過ぎているのに、バスが一向に来ないので、バス停で待っている人がバス会社に電話をかけてきたのだろう。僕が無線に応答しないので、何度も呼びかけてくる。
これは、もう僕ではなくて、バス会社とこの男の我慢比べだ。そして何も知らないバス会社が負けるはずがなく、この男改め誘拐犯が根負けをした。
「おい、無線の電源を切れ」
もちろん僕は素直に従う。これで無線による連絡ができなくなったが、バス会社はそんな事は知らない。だけど全く反応がないので、次は僕の鞄にしまってある携帯電話にも呼びかけるだろう。
それは誘拐犯も分かったようで、僕に携帯電話の在り処を聞いてきた。もちろん素直に教える。そしてそれをひなちゃんに取らせてから、自分が奪い電源を切った。
これで外部との伝達手段はなくなったが、バス会社は無能ではない。無線にも電話にも応答がないだけなら、僕が眠っていて気づいていない可能性を考える。それなら始発のバス停に、僕のバスがあるはずなのだ。
しかし、無線を聞いていた次の時刻にその始発のバス停を出る運転士から、そこにもその辺りのどこにもバスがないと連絡が入る。それを皮切りに、管内すべての無線各局から、僕が乗っているバスを見ていないと次々に連絡が入ってくる。もし事故か何かで無線や電話に出られない状態なら、他のバスが気づくか目撃した人が警察に電話をするだろう。そこからバス会社に連絡が来るはずなのに、少なくとも現時点では情報が全くない。
このバス会社の路線バスが走る道に、僕のバスがないのが明白となっている頃だろうか。事故の情報が入ってないかの確認も兼ねて、バス会社が警察に相談するのは時間の問題だと、僕は期待を込めて考えていた。だけど、実際のところは、そうではなかった。
ひなちゃんがこの誘拐犯から逃げているのを見たマスコミ関係の人が、警察に電話をしていたのだ。それで警察は確認のためにバス会社に連絡をして、さらにバス会社が僕に連絡を試みたが反応がない。なので、バス会社も警察も事件は本当だったと確信することとなった。
そんな事は未だ知る由もなく、僕は誘拐犯を刺激しないように、黙々と指示通りにバスを走らせていた。ただ、あらゆる事に集中していたが。仮に一匹の蟻が誘拐犯の足元をそっと歩いたとしても、今の僕なら気づいただろう。
だから、バスの100メートルほど後方をずっと付いてきている車にも気づいていた。しかしこれがまた僕を悩ますことになる。確率としては警察車両という方が高い。だけど、誘拐犯の共犯者という可能性は捨てきれないのだ。
共犯者がいるなら、バスの中の誘拐犯とすでに連絡を取り合っているはず。だから、あれは警察車両だ、と断定するのは危険だ。何らかの理由かもしくは作戦として単独犯に見えるように振る舞っているとも考えられる。
どちらにしても、もう『SOSボタン』には用がないので、押すことはないだろう。でもこのまま走っていても埒が明かないので、僕はちょっとした賭けに出た。




