その小学生の名は、小林ひな
そしてささやかな幸せな時間は、塚谷が車をこの前も寄ったサービスエリアの駐車場に停めるまで続いた。しかしそれが途切れたからといって、がっかりすることはない。開けていない冷めたコーヒーとミルクティーはそのままにして、この前と同じようにドーナツだけを持って、この前と同じように伊達メガネだけの変装をして、この前と同じように自動販売機でできたてのコーヒーを買って、この前と同じように目立たない席に着く。この前と違ったのは、誰も僕に気づかなかったことくらいだ。なので、ドーナツを塚谷に独り占めされずに、半分弱は僕も食べられた。塚谷は物足りなさそうにしているが、今さら僕にはどうしようもない。幸せは同じレベルで共有できただろう。
「美樹は本当にドーナツが好きなんだね。ありえない事だけれど、僕とドーナツのどちらかを選ばないといけない状況になったら、どっちを選ぶの?」
「そ、それは……。悩みますね」
「悩むんだ?」
「それなら、ひろしさんは、私とお好み焼きのどちらかを取って、どちらかは一生巡り会えない状況になっても悩まないんですか?」
「そんなの即答だよ」
「えっ!」
「それじゃ、もう行こうか。ドーナツを食べて元気も出てきたから、運転を代わろうか?」
「だめです。ひろしさんがバスを長時間運転した日に私がいる時は、私の大事なひろしさんの愛車は私が運転します」
再び塚谷運転で、僕たちはサービスエリアを出た。楽しく取り留めもない話をしていると、いつの間にかもう東京に着いている。くだらない譲り合いは無意味だと分かっているので、塚谷は何も聞かずに、そのまままっすぐ塚谷のマンションへ向かう。塚谷は降りて、そこからは僕が自分で運転して家に帰るのも、この前と同じだ。
「明日は、また迎えに来るから待っててね。現場の自動車教習所跡地まで一緒に行こう」
「はい、待ってます」
塚谷は笑顔で去っていく。もしかしたら塚谷はあの笑顔のまま、自分の部屋まで帰るのだろうか。塚谷ならありえるという結論になって、僕も笑顔になってしまっていた。そして僕までもしばらく笑顔のまま運転していたことは、誰も知らない。
翌朝、予定通りに塚谷と共に現場である自動車教習所跡地に着くやいなや、健二さんがわざわざ小走りで僕に近づいてきた。どう見ても深刻な顔をしている。とてもじゃないけど、健二さん演じるオトボケ刑事からはかけ離れすぎていた。さすがに撮影本番にはきちんと顔を作るのだろうけど。万が一でもあんな顔なら、今後一切、監督は健二さんを使いたいとは思わないだろう。
このドラマの撮影がそろそろ最終回に入るからって、百戦錬磨の健二さんが感傷的になるはずがない。こんなに評判になるならノーギャラだなんて言うんじゃなかったと後悔するような、小さい健二さんでもない。
何か重要な事があったのだ。しかし健二さんほどの人があんな顔になるほどの事なんて、僕が想像して分かるはずもない。なので聞いた方が早い。聞かない選択肢や気にしない選択肢はないだろう。
「おはようございます、健二さん。そんな顔して、何かあったんですか?」
「まあ、あったというか……。その……。ひろしに謝らなくちゃいけない事があって」
「謝る? どういうことですか?」
「その、どこから話せばいいかなあ……。昨日、ある子どもにお前の正体を気づかれなかったか?」
「えっ! どうして健二さんが? もしかしたら、あの小学生が、健二さんがこの前話してた子どもなんですか?」
「まあ、そのもしかしたらなんだよ。詳しい事は、今日、久しぶりにごはんでも食べに行って話さないか?」
「そうですね。久しぶりにゆっくり話したいですね」
「よかった。ああ、今、一つだけ言っておきたいのは、悪いのは俺なんだよ。俺以外には誰にも話してないことは、俺が自信を持って保障するから安心してくれ」
「分かりました」
大丈夫とは思ったけど、驚いてセリフが抜けていないかの不安があった。というより、今日に関しては手に何か持っていて安心したかったのかもしれない。僕にしては珍しく念のために台本を持ってリハーサルに臨んだ。すると、驚かされる事が待っていたのだ。
それは、誘拐犯が逃走のために路線バスを使うというちょっと無理な設定についてではない。そんな事はとっくの昔に知っているし、ドラマの不条理な設定にいちいち驚いていては、良い芝居なんてできるわけがないのだから。
なんと、誘拐される役の子役に急遽変更があったのだ。といっても、それだってないこともないし、別に驚くことでもない。僕を心底驚かせたのは、代わりに来た子役が、あの小学生、いわゆる健二さんの子どもの『小林ひな』だったのだ。しかし、そのへんは小林健二の子だと言えば、おだて過ぎかもしれないが、僕とは初めて会ったかのように振る舞ってくれている。もちろん僕はそれに合わせるだけだ。なによりプロの僕がリハーサルとはいえ下手な芝居を見せるわけにはいかないので、いつまでも動揺していられない。
今回の話は主人公の鮮やかな推理はほとんどなくて、バスの乗客として乗ってきた怪しい人物が誘拐犯だというのを見破るまでが、主に頭を使うところだ。見破ってからは悟られないように誘拐犯をじわじわ追い詰め、捕まえるお膳立てをするまでが僕の見せ場なのだ。
一番美味しいシーンは、健二さん扮するオトボケ刑事に譲らないといけない。それは、犯人を確保して誘拐されていた女の子を無事に救出するのだ。珍しくかっこよく。オトボケ刑事にとっては、唯一といっていいこのドラマ中での活躍だった。
あくまでも想像だけど、健二さんが一番かっこよく見える場面で娘と共演できるように、ノーギャラで出演している事などを利用してゴリ押ししたのかもしれない。普段の健二さんなら、監督と仲が良かろうがスポンサーのコネがあろうが、下手な役者とは一緒に出ないはずだ。しかし、かわいい娘となると話は別で、みんなに引かれようが嫌われようが、理不尽な事でもなんでもやりそうだった。
11年も会えなかったのだから、それを責めるなんて僕にはできない。
だけど、健二さんはひなちゃんが自分の子どもだということを、ひなちゃんのために隠したかったのではないか。健二さんが言わなければ気づかない可能性はあるけれど、リスクは高いだろう。それならなぜ?、という疑問がわくが考えても答えは出ないし、必要以上に詮索するのも失礼だ。そういうのをひっくるめて、晩ごはんの時に説明してくれるのかもしれない。
もう、ここは切り替えよう。撮影本番で一発OKを連続で出せるほどに集中力を高めるために。




