山田ひろしに気づいた3人目は、一般の小学生
塚谷に電話したからといって、気づかれた事実がなくなるわけではない。ただ、作戦会議と表して塚谷の声を聞いて安心したかっただけなのかもしれない。嬉しい誤算だったのは、塚谷がわざわざこっちまで来てくれることだ。ついでに東京まで送ってくれるのだろうか。それともさすがに運転は僕がするのだろうか。まあそれはどちらでも構わない。予定外に塚谷に会えるだけで、十分に喜ばしい事なのだから。
塚谷のおかげもあって、その後も安全運転を続けられて、何事もなく今日の仕事は終わりとなった。あの小学生以外では、お客さんをはじめ同僚の誰にも気づかれずにだ。その唯一の気づいた小学生を相手に動揺したのは、子供だから観ていないという先入観で、心の準備もできず無防備だったからだろう。昨日放映の今日というのもあって、精神状態が安定していなかったのもある。
だけど、それを言い訳に事故や失敗をしていては、バス運転士失格だ。なので慣れないといけないし、慣れると確信している。だからこそ、主演を引き受けたのだ。夢の主演を。そして、何より『名バス運転士ホームズ』に携わっているすべての人たちのためにも、僕は完璧に両立させないといけない。
おこらく僕一人だったら、プレッシャーに押しつぶされ、両方とも中途半端になっていただろう。しかし僕には塚谷がついている。その感謝をさり気なく最大限に表すために、僕は当たり前にドーナツを買ってから家に帰ってきた。すると、すでに塚谷が玄関のドアの前に座っていて、待ちくたびれたのか眠っているようだ。春になったとはいえ、夜はまだまだ寒い。起こされて機嫌が悪くなりませんように。
「美樹、美樹、起きて。こんな所で寝てたら風邪を引くでしょ」
用心のために、ドーナツの入った箱を塚谷の前に差し出す。起こされたことで八つ当たりをしようとしても、ドーナツだけには手を出さない。それに、すぐさま上機嫌になるだろう。本当にドーナツには感謝だ。
「ああ、ドーナツさん、お疲れさまです」
「美樹、寝ぼけてないで、ちゃんと起きて。風邪引くよ」
「はい、ドーナツさん。ひろしさんを買ってきてくれたんですね。ありがとうございます」
「……」
一応起きたようだし、すぐに頭もしっかり回転するだろう。
「すぐに着替えてくるから、先に車で待ってて。鍵はついてるから」と僕が言うか早いか、まるでトラに豹変したかのように、塚谷は僕からドーナツを奪い取った。かと思うと、堂々としていながらも軽い足取りで僕の車の方へ歩いていく。ドーナツだけを持って塚谷が一人で僕の車で東京に戻ってしまうかもと、一抹の不安を持ってしまったのは致し方ないだろう。
あくまでも無意識で、大急ぎで着替えて僕は戻ってきた。塚谷は運転席にいる。出発する素振りがないようなので、安堵が心地良い滝のように僕に降り注ぐ。だからといって、顔に出すと言い訳に困るので、あえて無表情を作る。
「美樹、僕が運転するよ」
「いつものようにバスの仕事の次の日に東京に戻るならまだしも、ひろしさんは何時間も運転した後なんだから、私がしないとわざわざ来た意味がないじゃないですか」
「そうかなあ。美樹が来てくれた意味は他にもあるけどね」
「え? どういうことですか?」
「どういうことだろうね。でも、お言葉に甘えようかな」と言ってから、僕は助手席に置いてあったドーナツがたくさん入った箱を膝に抱えて座った。何気なく見ると、ドーナツの箱には違和感がある。一度開けてからまた閉めたようなのだ。見て見ぬ振りをすればいいのに、自然と体が動き、箱を開けてしまった。
明らかにドーナツ1個分のスペースが開いている。犯人は明白だろう。犯人を追い詰めはしないが。しかし、僕の公道を恐る恐る見ていた犯人は、追求を逃れるためなのか、慌てて車を発車させた。
「はーい、発車しまーす」
実にスムーズな発進だったので、本気では慌てていなかったようだ。きっと塚谷は、僕が気兼ねなくすぐにドーナツを食べられるように、自分が先に食べたのだろう。運転してもらっている横で自分だけが食べるというのは、結構気を使うものなのだから。
塚谷がただ単に欲望の赴くままに行動したわけではないはずだ。なのに、僕がドーナツを食べる気配を感じた塚谷から、殺気が出ていたのは気のせいだろうか。僕は出したドーナツを食べるしかなかったが。一度食べるつもりになったら、ドーナツが僕を逃がすわけがないのだ。
少し走ると、信号待ちのために車が止まった。塚谷の目が僕とドーナツを行き来してから、塚谷の口が一気にドーナツが3個は入りそうな錯覚を起こすほどの大きさに開かれる。僕が生き延びる道は、ただ一つだ。昔の人が天変地異を鎮めるために生贄を捧げるような気持ちで、ドーナツを塚谷の口に入れてあげた。
信号が青に変わる頃には、ドーナツのはみ出ていた部分も口の中にすっかり収まっていた。塚谷は運転に支障がない状態でもぐもぐしている。なので無言だ。僕も黙っている。そして口の中からも無くなったと思われた頃に、塚谷の口は開かれた。と言っても、ドーナツを要求しているのではなく、言葉を発するためにだけれども。
「昼に電話してきた時に、ひろしさんは何か言いたそうにしてませんでした? ドラマの評判とかそんな事とはなんとなく違うような事で。何かあったんですよね?」
「そうなんだよ。実は、とうとう一般の人に正体を知られちゃって。それも小学生くらいの子供にだよ」
「えっ、ええー。そ、そ、そんな大事なことを、よくもまあ今まで黙ってられましたよね。そういう事は電話してすぐに報告してもらわないと困ります。ドラマの評判が良くてはしゃいでいた私も悪いかもしれないですけど」
「それは僕も同じだよ。ただ、その小学生は他の誰にも言わないって約束してくれたし。なんとなく信用できるんだよね」
「ひろしさんがそう言うのなら大丈夫とは思いますけど」
僕の説明に根拠はないし説得力もないけど、塚谷は納得してくれることが多い。地味に嬉しい。
「僕が心配しているのは、その小学生のことじゃないんだよ。小学生が気づいたということは、他にも気づいた人がいたかもしれないんだよね。気づかないまでも、僕のことを怪しいとかテレビに出ている人に似ているとかくらいは思ったかもしれないし。今思えば、意味もなく僕の方を見ている人がいたような……」
「そうですね。あれだけ数字が良かったんだから、観た人が単純にたくさんいるということですね。それも、よりによって、制服を着てバスを運転しているひろしさんを。違いといえば、制服のデザインと伊達メガネだけですもんね。そかそか……。ひろしさん、『ケ・セラ・セラ』って知ってます?」
「うん、知ってるよ」
「じゃあ、そういうことです」
このドラマを引き受けた時に、僕自身が「なるようになる」というようなことを、言っていたのを思い出した。なのに、ちょっと予想外の事が起こっただけで、ジタバタするなんて。改めて塚谷に言われて目が覚めたし、塚谷を誇りに思えた。
「ありがとう、美樹」
いつもなら、ここでドーナツを催促したり、褒めることを要求したり、晩ごはんを奢らせようとするはずなのに。塚谷は無言で運転を続ける。僕も塚谷に倣って、ドーナツを食べずコーヒーも飲まずに、前だけを見ている。何かをしているわけではないのに楽しかった。




