『路線バスに乗って一人旅』出演決定
「ひろしさんの喜ぶ顔を見たくて、事務仕事を後回しにしてもいいように社長を頑張って説得してきたんですよ。なのに、素っ気ないじゃないですか」
「ごめんごめん。一応仕事中だし、それに頑張って社長を説得するよりも、頑張って事務仕事を終わらせた方が良かったんじゃないのかなあ?」
「そんな事を言っていいんですか? この鞄の中に、何が入ってると思ってるんですか?」
この塚谷の笑顔から、今の僕に思い浮かぶものといったら……間違っても、ドーナツではない。
「えっ! も、もしかしたら?」
塚谷の笑顔が感染ったような気がする。
「そう、そのもしかしたらが、入ってるんですよ。そんな笑顔になっちゃって。仕事中じゃなかったんですか?」
「あっ。でも、だって、ドラマの台本を持ってきてくれたんでしょ? もちろん美樹の顔を見れたのも嬉しいよ。わざわざこんな所までありがとう。はい、早く見せて」
「どうせ私は台本以下ですよ。だけど、ドラマの台本だけではないんですよね」
「え? まだ他に何かあるの? 教えて、美樹」
「かわいい美樹と言ってくれたら、教えてあげてもいいんですけどね」
「かわいい美樹、教えて」
「はやっ。まあ、心もこもってたみたいだし、教えてあげましょう。見た方が早いですね」と言って、塚谷は『路線バスに乗って一人旅』と書かれた台本と『名バス運転士ホームズ』と書かれた台本を手渡してくれた。『路線バスに乗って一人旅』の台本はドラマとは違って決められたセリフなんてないので厚みはなかったが、僕にとっては『名バス運転士ホームズ』の台本と同じ重さに感じる。
すぐにでも中身を見たい衝動を抑えるのは、まあまあ大変だった。なんで見ないんだと思われるだろうか。それは、折り返して駅に向けて出発するまで、それほど時間がないのだ。今の僕はバス運転士なのだから、こっちを優先するのは当たり前なのだ。僕は泣く泣く鞄に台本をしまった。丁重に。
僕の行動は、塚谷の思い描いていたものではなかったのだろう。素直な気持ちが、つい口に出る。
「あれ? 台本を見ないんですか?」
「うん、まあ。もうちょっとしたら、駅に向かわないといけないからね。どうせなら、じっくり見たいもん」
「じゃあ、私も一回外に出た方がいいですよね?」
「ああ、別にいいよ。ここでバスを回すだけだから。せっかくだから、お客さんが乗ってくるまで、もう少し話してよ。この『路線バスに乗って一人旅』の仕事を、よく取れたね? それも、こんなに早く」
「それは、監督に協力してもらったんですよ。ドラマの宣伝にもなるから、なんとか出られるようにしてもらえないですかって、お願いしたんです。すると、二つ返事で承諾してくれました。そこからが早かったですね。お願いしてから1時間もしないうちに、その番組のスタッフさんから連絡があって、あっさり契約成立したんですよ。あの監督は、本当に顔が広いし力があるみたいですね」
「確かに、そうかもね。それでも、そんなにあっさり決まるなんて、なんか夢を見てるみたいだよ」
「まあ、夢ではないんですけど……。ただ、問題もあって」
「問題って?」
「そのおー、ドラマの撮影が来月から始まりますよね? 撮影は週に2日ペースでできるとして、バスの仕事は週に2、3日のペースだから、一見、週に2、3日余裕があるじゃないですか。だけど、安全のために、ひろしさんは俳優の仕事の次の日は完全休養日にしてるでしょ? そうなると、3日連続で『路線バスに乗って一人旅』の行くのって難しいんですよね」
「えっ、その一人旅のロケって、3日も撮るの?」
「撮るのは、1日かせいぜい1泊2日ですけど、旅の場所によっては、移動に時間がかかるんですよ」
「そうなんだ。ちなみに、僕はどこに行くの?」
「北海道です」
「ほ、北海道! 一人旅のスタッフが決めたの?」
「いいえ。どこか行きたい所があるか聞かれたので、美味しい食べ物がいっぱいある北海道にしました。冬の北海道は、きっと最高ですよ」
「そうだね。3日間必要ということは、その週は、バスの仕事を入れなければいいんだよね?」
「そうですけど……。だけど、それだと、バス会社に迷惑をかけてしまいますよね? ひろしさんの立場が危うくならないですか?」
「少しは迷惑をかけるかもしれないかな。なんだかんだで人手不足みたいだもんね。それでも、突然じゃなくて、前もって言うんだから大丈夫だよ」
「いや、でもですね……。ただでさえ出られる日がすくないんだから……」
「美ぃ樹ぃ。何を企んでるの? 白状しなさい」
「白状って。そんな何もないですよ。ただ、ひろしさんは今週は今日と明日とバスの仕事に出て、4日間休んで、またバスの仕事じゃないですか。それで、明後日から3日間、北海道ロケをできるんじゃないかなあと思って、もうすでに手配してあります。私がすぐにでも北海道に行って、美味しいものをたくさん食べたいとかではないんです。ひろしさんの空き時間を有効に使いたいというのが、ほとんどなんですよ」
「そんな……。でも、僕に時間があっても、一人旅のスタッフの人たちは、他に仕事があったりするんじゃないの? 普通は直近の予定は埋まってるでしょ」
「まあ、そうなんですけど、ディレクター一人とカメラマン一人なら、融通が利くって言われたので」
「えっ! そのロケって、そんな少人数で……いや、リカさんの時はもっとたくさんいたよ。僕が知名度のない俳優だからか。仕方がないね」
「何言ってるんですか。確かに、ひろしさんは今のところは知名度のないかもしれないですけど、このドラマでものすごいことになるんですよ。それに、一人旅のスタッフさんも、人を見て仕事の手抜きをしないです」
「そ、そうだね……。でも、現に北海道ロケのスタッフは二人だけなんでしょ?」
「まさか、そんなわけないじゃないですか。足りない分は、監督の映画スタッフの人たちが手伝いに来てくれるんです」
「え、ええー! か、監督の映画スタッフ?」
「はい。映画のスタッフだけど、監督がドラマを撮る時もスタッフとして参加するんですよ。だから、ドラマの宣伝とバスの勉強になるならと、喜んで手伝ってくれるそうです」
僕は、鞄に一度しまった『路線バスに乗って一人旅』の台本を出して、撮影日や参加スタッフの名前を確認してから、塚谷を見た。『路線バスに乗って一人旅』のスタッフや監督と交渉したり、僕のスケジュールやバス会社の都合も考慮に入れたり、事務仕事が減らないことで社長から注意されたりしながらも、なんとか北海道でのロケをまとめたのだ。それも、実質1日で。
能力もあるのだろうけど、想像を絶する努力もしてくれたはずだ。百歩譲って、それが冬の北海道を満喫したいというのが動機だったとしても、僕にはメリットしかないのだ。僕は、ただ好きなバスを運転していただけなのに。
訴えるような涙目で僕を見つめている塚谷に、僕はこれ以上何か疑問を提示するだなんてできるはずもなかった。いや、揚げ足取りのような真似をしている場合ではない。素直になろう。
「ありがとう、美樹。北海道、楽しみだね」
「はい」




