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路線バス運転士俳優山田ひろしの常識  作者: バスバスキヨキヨ


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有名人気俳優小林健二

僕が働いているバス会社は、東京から適度に離れている。俳優の仕事に差し支えなくかつ人口密度の少ない都市を、塚谷が考えた末に決めてくれた。中堅俳優の『山田ひろし』を知っている人が単純に少ないだろうという理由からだ。念の為に、伊達メガネで変装はしている。

 そして、この1年もの間、誰にも気づかれずに順調にバス運転士のキャリアを積み重ねてきた。はっきり言って、『山田ひろし』については気を抜いていた。気を抜いてはいたが、今回に限っては不可抗力だろう。こんな田舎のバスに、それも一番早い時間の、さらにあの寂しげなバス停から、まさか同業者が乗ってくるなんて。それも、よりによって、小林健二とは。

 夢でもみているのかと、本気で疑うほどだった。もしくは、そっくりさんなら……同じことか。誰かに気づかれたことには変わりがない。といっても、そっくりさんでないことは、僕には分かる。僕が健二さんを見間違うはずがない。大物俳優の健二さんにしたら、その他大勢の部類に入る僕を、大物面なんて一切せずにかわいがってくれていたのだから。

 あの人は、小林健二だ。それは間違いない……。だけど、今の僕はバス運転士『山田広志』じゃないか。明日以降もバス運転士を続けられるかどうか悩むよりも、今日のお客さんを無事に目的地に送り届けるのが使命だ。そして、小林健二もお客さんの一人なのだ。すべてのお客さんの今日を台無しにはしない、と僕は心に誓った。と同時に、不思議と落ち着けた。

 落ち着くと、気持ちに余裕ができた。とはいえ、余裕がいつもいつも良い事とは限らない。考える余裕ができた結果、大きな不安が襲ってきたのだ。このバスに、小林健二だけが乗っているわけではない。この時間帯は、少なくとも10人のお客さんが乗ってくる。健二さんは一応、僕同様に伊達メガネで変装はしてくれているが、他のお客さんが気づいたらどうなるのだろうか。少なくとも話しかけるだろう。はしゃいで握手を求める人がいても驚かない。バスの中だというのを忘れてちょっとした騒動になるのが目に見えた。

 車内事故というバス独自の事故の確率が格段に上がる。バスが動いている時に、勝手に転んでケガをしても、お客さんの自己責任ではないのだ。バス運転士の責任であり、いわゆる加害者扱いだ。なので、座るように僕は促すが、聞いてくれるとは思えない。小林健二と話せる機会なんて、まずないのだから。

 今の僕の希望は、小林健二に誰も気づかない事だけだった。気づいたお客さんが静かに座っていてくれるように願うのは、無駄な努力だから。

 そこからは、初めてお客さんを乗せて運転した時と同じ、いやそれ以上の緊張感で駅までの道のりを進んだ。新しくお客さんが乗るたびに、緊張感を増幅させながら。健二さんは察してくれているのだろうか。それとも、ただ単に自分が見つかりたくないだけなのか。目立たないようにしてくれているのが幸いだ。それでも、お客さんの誰もが健二さんに気づいてくれるなと、僕は祈り続ける。

 お客さんからは今の僕がどう見えているのだろうか。少しの違和感も持たれたくないが、僕自身が普段の僕を忘れてしまっている。緊張ゆえのことなのだろう。俳優の仕事で数々の修羅場をくぐり抜けてきたはずなのに、と思ったところで何も変わらなかった。唯一の救いは、安全運転を体が覚えてくれていたことだ。

 今朝起きてすぐに布団から颯爽と飛び出した時には、まさかこのような危機に陥るなんて想像すらしていなかった。バスの暖房が効いているとはいえ、真冬にもかかわらず、こんなにも汗をかくほどの。あの時にイメージしたタカラジェンヌの男役が足元から崩れていっているのが分かる。このタカラジェンヌの男役が完全に崩れ去ったなら、僕はどんな顔をしてお客さんに接しようか。朝から悲壮感の権化のような人に会いたくないだろうに。

 しかし、天は最後の最後に僕に味方してくれた。イメージしたタカラジェンヌの男役が顔だけとなったところで、僕のバスは終点の駅に到着したのだ。小林健二の存在に誰一人として気づかないで。冷静に考えたら、当然の結果なのかもしれないが、僕にしたら奇跡が舞い降りたようだった。

 この喜びをどんなにかバスに乗っている皆で分かち合いたいと思ったか。いつものように淡々と降りていくお客さんに対して、僕もいつものように淡々とお礼を言いながら、心の中では皆さんにハグをしたのは、これが最初で最後だろう。そして、何も知らないお客さんが次々に一人また一人と降りていき、案の定最後にイスを立ったお客さんだけが運賃箱の横で立ち止まった。両替するためではないのは、言うまでもないだろう。

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