まさかの緊急事態
僕の到着を、首を長くして待ってたであろうバスの点検を、速やかにかつ的確に行った。異常なしだ。僕がこのバス会社に勤めて1年の間に、バスの異常は一度もない。異常があったところで、予備のバスを使うだけとはいえ、異常がないことは素直に嬉しい。
さらに上機嫌になって、僕は点呼に向かった。本日の道路状況や注意事項を聞く。例に漏れず、催事や工事のようなイレギュラーな内容はないようだ。普段通りの安全運転を意識して再びバスに戻ってきた。
まだ車庫を出なくてもいい。当たり前と言えば当たり前だけど、余裕を持って来ているからだ。眠気覚ましというわけではないけど、ルーティンになっている缶コーヒーをちびりちびりと飲む。至福のひと時だ。この時のコーヒーは缶コーヒーで十分。BGMはバスのエンジン音だけでいい。気取ったクラシック音楽は、遠慮してもらおう。
コーヒーを飲み終えたところで、いよいろ出発進行だ。アクセル、ブレーキ、クラッチ、バスによってまあまあの癖があるのが、僕の方から寄り添っていく。回送で始発のバス停に着く頃には、すっかり馴染んでいた。
そこには、見覚えのある4人のお客さんが待っていた。なんだか安心だ。多い分にはいいけど、いつもより少ないと、他人事ながら心配してしまう。遅刻しているのか病気になってしまったのかと。だからって、発車時刻を遅らせてまで待つようなことはしない。しないが、それが気になって運転に集中できないと嫌なので、今日はひとまず安心できた。お客さんだって、普通に会社を休んだり出勤時間を変えたりするのだから、そもそも気にするようなことではないのだろう。ただ、僕の性格上気になってしまう。
不安要素が皆無で、僕のバスは定刻通りに出発する。この時は、いつも通りではない事が、まさか起こるなんて想像すらしていない。そんな爽やかな朝だった。こんな言い方をしたら、交通事故とかに巻き込まれたかと思われるかもしれない。確かに不測の事態が起こった。それは、僕にしたら、事故以上の衝撃だった。
駅に向かう朝一番のバスということもあり、途中のバス停でほとんど乗り降りがなかった。ここまでは、いつもと変わらない。しかし、あるバス停でお客さんが待っていたのだ。そのバス停は、一日を通してもほとんど停まることのない、悲しいかな寂れている。だからって見落とすような間違いは犯さない。
僕は当たり前にバスを停め、後ろ扉を開ける。待っていたお客さんが乗ってくる。お客さんは一人だけなので、安全確認の後に後ろ扉を閉めた。すると、そのお客さんが一目散に、僕のすぐ近くまで歩いてきたのだ。乗ってすぐに両替をする人もいるので、しばし待つ。しかし、そのお客さんは何かするわけでもなく、僕の後ろ姿をみているだけだ。バスのシステムが分からないのかもしれない。日本のバスは、先払いや後払い、前乗りや後ろ乗り様々だから、一見さんには難しいところもある。
失礼になるかもと、話す時以外は、僕は意識してお客さんの顔を見ないようにしていた。しかしこのままでは埒が明かない。お客さんは何から聞いたらいいのか迷っているかもしれないし。振り返り僕の方からお客さんの疑問点を聞くことにした。
「お客さん、何か……」
「お前、ひろしだよな?」
「け、健二さん! な、何で? 何でこんな所にいるんですか? いや、そうじゃなくて、運行中は業務に関係のない事は話せないので……。すいません」
驚きながらも、なんとか声は抑えられた。他の乗客には何を話していたかまでは分からなかった……と思っておく。少なくとも、わざわざ会話に入ろうとはしないでくれている。今はそれで十分だろう。
健二さんも、僕に負けず劣らずに驚いていた。それでも、僕と違って冷静になる必要がないだけ羨ましい。僕はといえば、冷静になろうと努力しつつ、バスの業務に戻る。バスを発車させるために、バスの周囲を確認すると、不思議と落ち着いてきた。続いて車内も確認する。すると、呆気にとられているが何か話したそうにしている健二さんと目が合った。失礼を承知でお願いしないといけない。今は、僕はバス運転士なのだ。
「すいません、安全のために座っていただけますか?」
「ああ、悪い悪い。すぐに座るから、ちょっと待ってくれ」
言い終わるか終わらないかで、健二さんはすぐ近くの席に座ってくれた。ありがとうございます、健二さん。僕はゆっくりバスを発車させる。さほど遅れていない。全く問題ない。時間的には。
そこからは、順当にいつも通りの運行をつづけながらも、久しぶりに会った健二さんに対して素っ気ない態度をとってしまったことが、頭の片隅から離れなかった。今は頭の片隅以上の大きさにならなければ問題ないだろう。バスを安全に運行させるという最優先事項は十分に全うできるはず。心を鬼にして黙々と運転すればだけど。
心は鬼になれたが、鬼でも考え事はするし、鬼だからこそ雑念が多いとも言える。という言い訳のもとに、様々な雑念が湧いてくる。終点である駅に着くまでの道のりは簡単ではないようだ。開き直るのが最善の策かもしれない。まるで未知の惑星へ向かう宇宙船を操縦しているかのようだった。そんなものすごい覚悟を持っているだなんて、乗客の誰も知らない。知られるわけにはいかない。
特に、あの超大物有名人気俳優の小林健二が、このバスに乗っていることだけは。収拾のつかないパニックになること請け合いだ。ついでに、山田ひろしの存在に気づかれたなら……。




