俳優かバス運転士か
「カッートォー! 何回目なんだよ、ひろし。もおー! 一回休憩だ。すいません、健二さん、ちょっと休んでください。ひろし、お前の代わりなんて、いくらでもいるんだぞ。できないなら辞めてしまえ」
「すいません。次は必ず……。健二さん、本当にすいません」
「気にするな。と言いたいところだけど、最近のひろしはどこか変だぞ。悩みがあるんじゃないのか? いつでも相談に乗るから、遠慮なく言ってこいよ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫なので。すいません、一旦、頭を冷やしてきます」
セリフはきちんと頭に入っている。なのに本番に入るとさっぱりだ。こんな事は俳優人生で初めてだけど、理由は分かっているつもりだ。ただ、解決法が分からない。現場でじっとしていても埒が明かないので、僕は無駄だとは思いながらも外の空気を吸いに出ることにした。
すると、現場に同行していたマネージャーの塚谷が、慌てて僕を追いかけてきた。撮影中から終始不安だったのだろう。いや、それ以前からだ。塚谷が僕の異変に気づかないわけがないのだから。それでも、今まではそっと見守ってくれていた。僕から話すのを待っていたのか、自然と解決するように神様に願っていたのかは分からない。だけど、もう我慢の限界のようだ。歩き方が、そう言っている。
「ひろしさん、一体どうしたんですか? 何を悩んでいるのか正直に言ってください」
「何も悩んでないし、大丈夫だよ。もうNGは出さないから。約束するよ」
「いいえ。ひろしさんは悩んでます。NGも出血大サービスで出すに決まってます。敏腕マネージャーの私を騙せると思ったら大間違いですよ。さあ、早く白状してください。白状しないなら、マネージャーを辞めさせてもらいます。ただ、辞めても時々……いや毎日、ドーナツを持ってきてください。それでは」
踵を返しつかつかと歩き去ると思いきや、塚谷はじっとしている。辞めないのはあからさまだ。だけど、僕は白状することにした。僕が白状するまで、あの手この手で攻めてくるからだ。
「つ、塚谷君、分かったよ。言うけど、笑わないでくれる?」
「内容によりますね。じゃなくて、笑わないです。ドーナツにかけて。私を信じてくれますよね?」
「半信半疑だけど、もう言うしかないもんね。実は、子供の頃に憧れていたのは俳優だけじゃなくて、バス運転士にもなりたかったんだよ。それで……」
「なんだ、そんな事ですか」
「そんな事って……。僕が真剣に悩んでるのに」
「悩んでる暇があるなら、バス運転士になればいいじゃないですか。私が適当なバス会社を探してあげますね。はい、解決ー。さあ、撮影再開ですよ。あの恐い顔の鬼監督さんに言ってきますねー。と思ったけど、それは、ひろしさんの仕事です。頑張ってくださいね。次にNGを出したら、石をぶつけられるかもしれないですけど、そんな事を想像したらダメですよ。あっ、それから……」
これ以上の恐怖心を植え付けられたら、違う理由でNGを出してしまう。僕は耳を塞ぎながら全速力で撮影スタジオに戻っていった。体感では、オリンピックで金メダル級のスピードが出ていた。なぜなら、恐怖心だけでなく、バス運転士への憧れが実現する喜びが後押ししていたのだから。
僕は、朝早く起きるのが得意ではない。朝早くなければ容易に起きられるのかといえば、それも違う。基本的には、起きるという行為は、得意ではないどころか大の苦手だ。気持ちよく寝ているところを起こされるのは、大なり小なり辛く感じる人は仲間意識を含めて大勢いると言っておくか。その中でも、僕は上位にいるのだろう。僕にとっては、地獄のような苦しみでストレスも計り知れないのだから。
余談だけど、ストレスのはけ口というか八つ当たりされて、本来の寿命を全うできなかった目覚まし時計は数知れない。目覚まし時計のお墓を本気で作るべきか考えることもある。これで、僕の起きるという行為の苦手具合は理解してもらえたと思う。良い面も言っておこう。早い時間だろうが遅い時間だろうが、なんと、苦痛は全く同じなのだ。
そんな僕が、健気で実直な目覚まし時計のおかげで起きられたなら、次の関門は、温かくて気持ちのいい布団から出ることだ。大抵の人にとっては、なかなかの試練だろう。だけど、僕は違う。一度起きてしまえば、ここからは僕の動きを止めるものなどない。
だって、バス運転士という仕事が待っているのだから。
そんなわけで、タカラジェンヌの男役のように颯爽と布団から飛び出すと、速攻で身支度を整える。バス会社までは、朝もやの中、愛車で安全運転を全うする。バスだろうが自家用車だろうが、同じように。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「山田君、おはよう。今日も朝から元気だね。」
「そうですか? 自分では、いつも変わらず大人しいつもりなんですけど。バスを運転できるから、楽しさが無意識に出てるのかな」
「そうなのかい? 大人しい山田君なんて見たことないけど」
「自分で言うのもあれですけど、本当に普段は大人しいんですよ。俳優の現場では……」
「俳優?」
「あっ、いえ。昨日観たドラマの俳優さん、なんて言ったかな、その人のような感じなんですよ」
「そうなんだね。その俳優さんが分からないけど、山田君は普段は大人しいと認識しておくよ」
「はいっ! では、バスの点検してきます」
バス会社には、僕が俳優の『山田ひろし』だとは告げていない。ただの『山田広志』として応募して採用してもらった。俳優だけで食べていっているとはいえ、そこまで認知はされていないのが、事務所とマネージャーの塚谷と僕の共通認識だ。それでも、俳優がバスを運転していると知られたら興味本位だけで、このバス会社に訪れたりバスに乗って来る人がいるかもしれない。一見、乗客が増えてバス会社は潤うように見えるかもしれないが、会社の日常業務に支障が出たり普段乗られている地元のお客さんに必要以上に迷惑をかける恐れがある。
『山田広志』が『山田ひろし』だと知られたなら、僕のバス運転士人生は終わりを告げるだろう。




