ひろし主演が実現する
「それが、詳しくは何も聞いてないんです。明日、映画の方の撮影が終わった後に時間をとってほしいと言われたんですけど、大丈夫ですよね?」
「もちろん大丈夫だよ。でも、僕は自分の出番が終われば時間があるけど、監督はその後もしばらく撮影があるんじゃないのかなあ。それが終わるまで待ってないといけないの?」
「そう言えば、ひろしさんとリカさんのシーンで終わりにするために、明日の予定は少し変更するとかなんとか言ってたような。ひろしさん主演の話で頭がいっぱいで、ちょっと記憶が曖昧ですけど、うまく調整してくれてると思いますよ。ひろしさんは予定通りに入って、順調に犯人役を演じて、たぶんそこからそんなに待たずに打ち合わせをして、暗くなる前に帰れると思いますけどね」
「なるほど。じゃあ、僕は予定通りに、美樹が迎えにきてくれるまで家で待ってたらいいだけだ」
「え? 明日はテレビ局のスタジオで撮影なのに、自分の車で入らないんですか?」
「美樹に電話するまでは、そのつもりだったんだけどね。でも、主演の話なんて聞いたら、今日普通に寝られるかどうか分からないじゃない。寝坊したら困るでしょ? 迎えにきてくれるよね? ねっ?」
「はいはい、分かりましたよ。会社の車かタクシーで行くので待っていてください。それにしても、ひろしさんが主役の仕事をこんなに喜んでくれるなんて、私も嬉しいですよ」
「バスの仕事を始めた時点で、主役は完全に諦めたからね。だからこそ、普通にオファーが来るよりも倍嬉しいよ。あっ、そろそろ次の運行に行かないといけない時間だった。また明日話そう」
「はーい。私は、社長の目を盗みつつさぼりながらも、この事務仕事の山を小高い丘ぐらいにはなるように頑張ります。なので明日はフラフラしているかもしれないですけど、気を使ってドーナツとかを用意しておかなくても大丈夫ですよ」と言い終わってすぐに電話は切れた。
今さっきバスの中で小野さんを見た時の動揺は、どこに行ってしまったのだろうと思うくらいに落ち着けたのは、塚谷と話したおかげだ。ただ、今回はその塚谷からあまりに耳寄りな話を聞いてしまったので、動揺が興奮に変わっていたけれども。
だからといって、安全運転をできないような僕ではない。と胸を張りたいが、普段と違うのは明らかだった。良い意味でだけど。バスから降りていくお客さんに向かって、塚谷にも負けず劣らずの笑顔で「ありがとうございます」を無意識にやっていたのだ。「僕、主役やるんです」と付け加えそうになるのを自重しながら。
ナチュラルハイの状態だったのは否めない。それでも調子に乗らず安全運転を心がけられた自分を誇りに思えた。こう言っているということは、仕事が終わってもナチュラルハイは続いていたのだろう。全く疲れを感じていなかったし。なので、この前の健二さんに見つかった時のように撮影の前日の今日帰ろうと、家へ戻って着替えると晩ごはんは東京で食べるつもりで、すぐに出発した。ちなみに、普段は撮影当日に東京に向かうことがほとんどだ。
正直に言うと、今日も塚谷に迎えにきてもらおうか、少し悩んだ。しかし今日は、塚谷にとっては大変で辟易する事務仕事をしていた。そんな時に、東京の家へというならまだしも、こっちの別宅まで来るのはなかなかの負担になる。だから自分自身で運転するのを選んだが、運転は全くなんともないけど塚谷がいない寂しさがある。
と、塚谷の事を考えていると、塚谷がドーナツをあからさまに要求していた事を思い出した。ドーナツ屋さんをぎりぎり通り過ぎる前で本当に良かった。嬉しいことにまだ開いている。閉店間際にしてはたくさん残っていたが、僕の気が大きくなっていたし、食べる担当の人の胃袋も考慮にいれた結果、人生で初めての「残り全部ください」と言ってしまう。お店の人の業務用ではない本当の笑顔が嬉しかった。
助手席にドーナツがたくさん入った箱を置くと、シートベルトをするか本気で迷った結果、試しにやってみる。ドーナツが「ありがとう」と言ったのを、僕の耳にははっきりと聞こえた。空耳だとしておこう。食べるのがかわいそうだと思ってしまうから。
しばらく経つと、ドーナツはドーナツにしか見えなくなっていた。主役が決まった興奮が、いくらか落ち着いてきたと言うのが、正しい表現かもしれない。そんな美味しそうなドーナツが目の前にたくさんあって、我慢できる人間なんているのだろうか。味見してしまったのも、当然の結果だろう。ほんの少しだけでも葛藤した自分を褒めてあげたいくらいだ。塚谷なら理解してくれるに決まっている。ドーナツがたくさん入っている箱の中に不自然なスペースが残っているのを、見て笑っている塚谷の笑顔を想像してしまった。
安全運転で無事に東京の家に着いた僕は、まずシャワーを浴びてさっぱりすることにした。さっぱりすることに成功はしたはずなのに、ナチュラルハイが隠していた疲労とドーナツという名の睡眠薬の効果が突如として襲いかかってくる。仕方なく、今日あったたくさんの嬉しい事と晩ごはんを忘れて、布団の中へ入り夢を見ることとなってしまう。目覚まし時計をセットするのを忘れていたが。
塚谷が連打する呼び鈴の音で、僕にしては珍しく爽やかに気持ちよく目覚めた。理由は言うまでもないだろう。それよりも、今は呼び鈴のボタンが心配だ。呼び鈴のボタンに容赦のない攻撃をくわえている塚谷は、僕がなかなか起きないのを知っている。僕が顔を出すまでは呼び鈴のボタンにとっては無慈悲な修行のようなものだろう。呼び鈴のボタンを救出するためにも、僕は玄関へ急いだ。
ドアを開けると、呼び鈴は止み塚谷が顔を出す。何気に手をかばっている。呼び鈴のボタンは大丈夫だろうか。僕が確認するのを阻むように、塚谷が話しだした。
「ひろしさん、おはようございます。じゃあ、行きましょうか?」
「ちょっと待って。今起きたばっかりなんだから。すぐに準備するから、上がって待ってて」
「はーい、お邪魔しまーす。慌てないでゆっくり支度してくださいね、ひろしさん。やっぱり会社の車で来て正解でしたね。とりあえず私は、ミルクティーとドーナツで幸せタイムに入るので、邪魔しないでくださいね」
「ドーナツがあるって、よく分かったね?」
「ひろしさんが私との約束を破るわけがないですからねって、もう邪魔してるじゃないですか。私のことはほっといて、自分のことだけに集中してください。あっ、でも、分かってるとは思いますけど、あんまり早く動かないでくださいね」
僕がすぐに出発できる状態でなかった事もドーナツを用意していた事も、塚谷は知っていたのだろう。僕の車のすぐ横にある空いたスペースに、会社の車をきっちり停めてエンジンを切ってから、僕を迎えに来ていたことからも明白だ。そして、塚谷がこう言えば、僕がああいう風に行動するというのも読まれている。敏腕マネージャーなのだから、それくらいはできて当然なのかもしれないが、ちょっと悔しい。でもまあ、あの笑顔を見せられると何もかも許せるから不思議だ。
塚谷がドーナツをたくさん食べられるようにゆっくり支度をしたつもりだったけど、塚谷はまだ3個しか食べていなかった。どうやらミルクティーを作るのに手間取ったようだ。塚谷が訴えるような目で僕を見るし、僕は昨日の晩はドーナツしか食べていないので、トーストを焼いて食べることにした。それでも撮影時刻まではたっぷり時間があるので問題はない。
塚谷と僕の胃袋が満足してから出発しても、時間的にはまだまだ余裕があった。ドーナツを平らげ大満足の塚谷運転の車はスムーズにテレビ局に着く。撮影開始予定時刻までは、まだ余裕がある。遠慮なくまったりしていると、ドアをノックする音がした。スタッフの人が呼びに来てくれたのだろうか。僕だけでなく塚谷までもが慌てふためく。着替えもメイクもこれっぽっちもしていないからだ。
僕たちは撮影時刻を勘違いしていたのかもしれない。せめて気の利いた言い訳を考えようか。いや、やっぱり正直に謝ろう。塚谷も目でそう言っている。最低限の誠意を見せるためにも、僕はドアに急いだ。




