山田ひろし初主演作は『名バス運転士ホームズ』
「小野リカです。ひろしさん、いますか?」
え? リカさん? もしかしたら待たせすぎて、わざわざリカさんが呼びに? いやいや、そんなわけがない。ということは、撮影はまだ始まってないのでは。それはそうだ。時間を何度も確認したのだから。主演の話を聞いて、舞い上がって冷静ではなかったようだ。僕と塚谷共々。
「リカさん、とりあえず入って」と、見ようによっては何か怪しい行動をとってしまったが、僕には後ろめたい事なんてあるわけがない。楽屋前で話すよりは中で話す方が落ち着いて話せるからだ。昨日の今日なので、まさか挨拶だけをしに来たわけではないだろう。
「あのー、ひろしさん、美樹ちゃんも知ってるんですよね? そのー、バスの事?」
「うん、もちろん知ってるよ。一昨日、リカさんにも話そうと思ったんだけど、なかなか言えなくて。でも、あんな所で会うなら、思い切って話せば良かったよ」
「昨日は私も驚きましたけど、私以上にひろしさんを驚かせちゃいましたね。改めてですけど、誰にも言わないので安心してくださいね。私と美樹ちゃん以外にも知ってる人はいるんですか?」
「うん。ちょっと前に、偶然にも健二さんがバスに乗ってきて話しかけられたら、思わず返事しちゃって。全くの想定外だったから、知らない顔をする暇もなかったよ。だけど、健二さんも誰にも言わないでくれるから、安心しているけどね」
「もしかしたら、あの3日前に私だけ食事に連れていってもらえなかった事と関係があるんですか?」
「ああ、あの時はごめんね。別にリカさんに教えたくなかったとかじゃなくて、他の誰にも知られたくなかったから、僕も美樹も頑なになっちゃった」
「いえいえ。事情を知って安心しましたよ。私は嫌われているとかまではなくても、仲良くはなりたくないんだと思って泣きそうになりましたよ。でも、お好み焼きに誘ってもらえて、今度は嬉しくて泣きそうになっちゃった。まだまだひろしさんと話したい事がいっぱいあるから、また一緒に食事に行ってくれませんか?」
ここで塚谷が入ってくる。本当に塚谷は話に割って入るのが上手だ。
「リカさん、何をかしこまってるんですか。私たちは仲良しなんだから、一緒に行くに決まってるのに。そんなの、リカさんらしくないですよ」
「こらこら、美樹。失礼じゃないか」
「いいんですよ、ひろしさん。というわけで、お互いに時間が合えば、一緒に食事に行かないとだめですよ。もちろん支払いは……」
リカさんは、塚谷がたまにするいやらしい笑顔をしながら去っていった。と同時に、塚谷も僕に対していやらしい笑顔を向けている。僕はとてもじゃないが、今の自分の顔を見る気にはなれなかった。
「出費がかさみそうですねー、ひろしさん。だけど、ドラマの主役に大抜擢されたので、大丈夫そうですね。私への感謝はほどほどでいいですよ。そんなそんな、私なんて、この件に関してほんのすこーししか大活躍してないですもんね。いやいや楽しみだなー、いろんな意味で」
塚谷が一人悦に入っていると、今度こそスタッフの人が呼びに来てくれた。ひとまず塚谷はそっとしておいて、僕は急いで準備をして撮影に臨む。言うまでもないだろうけど、息の合ったリカさんとのシーンは一発でOKが出て、あっさりと終わった。すると監督が近づいて来たが、今日の演技を褒めにきたのはないくらいは分かる。
「ひろし君、後で楽屋に行くから、帰らないで待っててね。30分も待たせないから」
「はい。いくらでも待たせてもらいます」の僕の返事を背中に受けながら、監督は去っていった。
「あれ? これから打ち合わせですか?」
リカさんが残念そうに聞いてくる。リカさんは、この後の予定がなくて、一緒に食事に行きたかったのだろうか。そう思うと、僕も残念な気持ちになってきた。だけど、今日だけは、是が非でも仕事を優先しないといけないのだ。
「うん。実は、ドラマの主演が決まりそうなんだよね。僕にはちょっとしたハードルがあるけど、いろいろわがままを聞いてくれるみたいだから、受けようと思って。やっぱり、主役を演じるのは憧れだから。こんな機会はもう二度と来ないかもしれないし」
「そうなんだ」とだけ言って、リカさんは何か思いついたかのような顔をして、監督と同じ方向に去っていった。監督もリカさんも忙しそうだ。売れっ子だから仕方がない。一緒に喜んでくれたりお祝いの言葉を言ってくれるのを期待した僕は、ただの自惚れ屋さんなのだろう。いや、まだ本決まりではないし周りに人がいたから、リカさんなりに気を使ってくれたに違いない。僕にしてはプラス思考になれたのは、やはり主演の話があるからだろう。
それからすぐに急いで楽屋に戻り塚谷と共に監督を待った。まずないのに、僕が戻るよりも監督が先に楽屋に来ると申し訳ないからだ。僕の努力は徒労に終わり、約束していた30分をいくらか過ぎて、監督はやって来た。塚谷が一緒だったので、全然長くは感じなかったが。
「ひろし君、ごめんね。もう少し早く来られるはずだったんだけど、リカさんに捕まっちゃって」
「リカさんに? 今回の映画のことで何か気になった事でもあったんですか?」
「いやいや、映画とは全く。どこで聞きつけたのか分からないけど、このひろし君主演のドラマに出たいって言うんだよね。どんな端役でもいいし、ギャラも安くてもいいからと懇願されちゃって。それで、本当はひろし君の助手役は女子高生を想定してたけど、リカさんに合わせて女子大学生に変えようと思って。リカさんがいくらかわいいと言っても、高校生役というのはちょっと無理があるもんね。まあ、それも、ひろし君ときちんと相談してから決めたいから、リカさんへの返事は保留中だけどね。だから、早速、打ち合わせに入ろうか」
「そうですね。僕の役も含めて、まだ何も聞いてないので、お願いします」
「まずは、題名が『名バス運転士ホームズ』なんだ。内容としては、バスという密室の中で起こる事件を、バス運転士と偶然乗り合わせた乗客の女子高校生じゃなくて女子大学生が助手となって解決に導く推理ものなんだよね」
バス運転士と聞いて、僕は顔色一つ変えるわけにはいかなかった。しかし、どんな表情をしたらいいのだろうか。
「そ、それは、また絞りましたね。そんな制約があったら、脚本家の人も大変じゃないですか?」
「大変だけど、やりがいがあるって喜んでるよ。私も一緒に考えるんだけどね。まあ、そっちは任せておいて。なんとかするから。実は、以前から私がそういう話を撮りたいと言ってたのもあって、ある程度はできてるんだよ。ただ、これに合う俳優がなかなか見つからなかったから、もしかしたら頓挫するかもって投げ出しそうになっていて。本当のところ、運転しているシーンは代役を使うなり方法はいくらでもあったんだけど、どうしてもこのドラマだけはリアルにこだわりたかったんだよ。バスを動かすだけだったら、これだけの芸能人の中にできる人はいくらかいた。いたけど、私の思い描いている人物と合致するかと言えば、全く話にならなくて。それで、妥協するか諦めるかの二択しかないのかと悩んでいる時に、ひろし君という希望の光が現れたんだ。この喜びといったら、この作品が私の遺作になってもいいと思ったくらいなんだよ。お世辞でもなんでもなく本心だから。で、一応確認だけど、ひろし君は出てくれるよね?」
「そこまで言われて、断れるわけないじゃないですか。じゃなくて、僕だって出たいに決まってますよ。是非よろしくお願いします。それで、撮影スケジュールとかは決まってるんですか?」
今の僕にとっては、このスケジュールが最も大事で最も早く知りたい事だ。バス運転士山田広志の出番の日を決めるのにも支障が出てしまう。逆に言うと、バスの出番の日が決まってしまうと、もうその日にはどのような急な仕事も入れることはできないのだ。
「本音を言えば、今すぐにでも撮りたいんだけどね。だけど、まだこの映画の撮影が少し残ってるから、早くても来月からかなあ。脚本は5話くらいまではできてるけど、手直しは必要だし誰を使うか決まっていない役だらけだから、もう少し時間が必要かもね。ああ、そうだ、仮の台本があるから事務所の方に送っておくよ。それで、どんな話か、参考までに目を通しておいて。それじゃ、他に何か気になる事があったら、どんな小さい事でもいいから電話してきてね。マネージャーの方に私個人の電話番号を教えてあるから」と言うと、監督は急いで出ていった。
忙しい中、わざわざ監督直々に来てくれたことが嬉しかった。ただ、今まで見たことのないような設定の話で、よりによってバス運転士を演じることに不安を感じたけれども。安易に引き受けてしまったのだろうか。バス運転士を続けられるように努力はするが、正直、僕の手に負えない部分もある。このドラマは僕の俳優人生を左右するものになるだろうけど、もしかしたらバス運転士としての僕を抹殺しかねないかもと思ってしまった。
僕のこの複雑な感情を、塚谷がいつものように理解してくれたようだ。
「なんとかなりますよ、ひろしさん」




