芝居後、バス運転
帰りは、塚谷運転の車に、小野さんが助手席に乗り、僕は一人寂しく広めの後部座席を占領していた。それでも二人の楽しげな会話を聞いて、僕も同じように楽しくなっていたが。そして、まず当たり前に小野さんの住んでいるマンションのすぐ前まで行って小野さんを降ろすと、塚谷は僕の家に向かってくれた。
「ひろしさん、あっちの家の方まで送りましょうか?」
「ありがとう。でも、今日もいつものように車を東京の家に置いてあるから、こっちの家までお願い」
「そうでしたね。じゃあ、今日のうちに車であっちの家に行くということですね?」
「そうだねえ。あんな形で急に仕事が入るなんて想像すらしてなかったから、大幅に予定は狂ったけど、それでも今日中に戻ってあっちの家で寝た方がいいからね。バスの仕事に備えて、疲れが取れるくらいの睡眠時間が十分にあるはずだよ」
「まあ、ひろしさんがそう言うのなら大丈夫でしょう」と言ってから、こっちの家まで塚谷は僕を無事に送ってくれた。
「今日は美樹のおかげで最高の仕事ができたよ。美樹もそう思うでしょ?」
「そうですね。寝てたから仕事ぶりは全然分からないけど、きっとそうだと思います」
「ありがとう。そして、今日はすごく嬉しかったよ」
「え? 何がですか?」
「なんだろうね?」
塚谷がたまにするいやらしい笑顔を、僕も真似てみた。鏡で確認はできていないが、完璧にできたはずだ。僕は俳優なのだから。
「教えてくださいよ」と言う塚谷を尻目に、僕はそそくさと駐車場に停めてある自分の車へと向かった。なので、塚谷がどんな顔をしていたかは見ていない。それでも、塚谷は笑顔だったと確信している。
昨日は帰ってきてシャワーを浴びてすぐに眠ったので、7時間は寝られたと思うけど、やはり目覚まし時計に八つ当たりをしてしまった。何時間寝ても無理やり起こされるのは、どんな人でも嫌に決まっていると言い訳をして、自分を正当化することで反省しない僕は目覚まし時計から目を逸らす。そして、都合の悪い事はすぐに忘れて、気分を入れ替えて愛車に乗りバス会社へと向かった。
もうすでに『山田ひろし』ではなく『山田広志』になっている僕は、役者の時とは違う種類の緊張と、役者では決して得られない種類の楽しみに包まれていた。
「おはようございまーす」
「おはよう。山田君は、いつも元気だね」
「それはもう。週に2、3日しかバスに乗れないんだから、一回一回が楽しくてしょうがないですよ。あっ、もちろんふざけるなんてせずに、安全運転しかしないですよ」
「そんなに楽しいなら、社員になって毎日のように乗ればいいのにと思うけど。……あっ、ごめんごめん。みんなそれぞれ都合があるもんね。でも、山田君が社員になりたいって言えば、会社としては歓迎大歓迎だから、遠慮しないで言ってね」
「はい、ありがとうございます。それではバスの点検をしてきます」
バスの点検を終えると、僕はいつもよりもウキウキしていた。なぜなら、今日は僕の大好きな23番ダイヤを担当するからだ。この23番ダイヤというのは結構お客さんがいっぱい乗る、といっても観光客の人が大半を占めるが、そういう運行がたくさんあるのだ。大勢乗って何回も止まったり動いたりを繰り返すと疲れるから嫌だと言う人もいるけれど、幸か不幸か、今の僕はそういう事がいかにもバスを運転していろいろな人の役に立っていると思えてやりがいを感じる。しかしそれはあくまでも週に2、3日しか出てないからで、もしほとんど毎日だったなら、どう思うのか自分でも分からない。
ただ、お客さんの乗り降りが多いということは、必然的にバスが遅れる時間も長くなる。中には舌打ちしたり、ため息をついたりして苛立ちを表す人もいる。さらには、遅いというような事を捨てゼリフで吐いていく人もいないこともない。
聖人君子なら、笑顔で受け流せるのだろう。だけど、残念ながら僕は人間ができていないのか、ポーカーフェイスを作りながらも心の中で言い返す時も稀ではない。そして情けないことに、その事で自己嫌悪に陥ってしまう。そんな僕を救ってくれるのは、塚谷だ。といっても、近くにいて何かをしてくれるわけではない。僕は塚谷の笑顔を思い浮かべるのだ。それだけで、機嫌が良くなるまでは無理としても、すごく冷静になれる。なんだかんだで、塚谷には助けられてばかりだ。
おかげで、僕は気分良くバス運転士を続けられている。そしてこの先も続けられるのだろう。少し愚痴っぽくなったかもしれないけど、大げさに言っただけで、正直に言わせてもらうと、お客さんに嫌な思いをさせられることはほとんどない。なので、今日も仕事を無事に終えた時には、充実感でいっぱいだろう。
というわけで、僕はプラス思考になって、点呼に向かった。
「点呼をお願いします」
「はい、山田君は……おお、お気に入りの23番ダイヤだね。これは、ほとんどの運行で遅延が発生するので、遅れたからといって焦ったりスピードを出したりしないようにしてください。いくら遅れてもいいので、事故を起こさないように安全運転でお願いしますね」
「はい。行ってきます」
1つ目の運行、2つ目の運行、そして3つ目の運行は、主に通勤通学のお客さんなので、バスが遅れて来ることは百も承知だ。なので、淡々と乗って淡々と降りていく。この淡々とが、とにかく焦る僕の気持ちを和らげてくれるので、いつも感謝だ。
やはり僕も人間なので、待たせてるとか遅れてるとか思って、スピードを出したいと思ったことは一度や二度ではない。だけど、立ち客もたくさんいる中、スピードを出して万が一事故を起こせば大惨事に繋がる。奇跡的にケガ人が出なくても、念の為に警察や救急車を呼んでさらに代わりのバスか次の時間のバスかが来るまで、乗客には待機をしてもらわなければならなくなる。なので、たかだか5分かそこらを縮めるために、リスクは取れない。
いや、例えいかなる時であっても、僕は安全運転をしなければならないのだ。大切な乗客の命とバス運転士のプライドにかけて。
いつものように朝のラッシュ時を当たり前に安全運転で無難にこなすと、小休止を挟んで、いよいよ観光客が増えてくる時間になっていた。観光客は日本人だけではなく海外からの人もちらほらといるので、英語がペラペラの僕は大歓迎だ。だけど、なぜだか僕の素晴らしい英語を、外国人はほとんど理解してくれない。英語をまるで母国語のように操れる僕は、大げさな身振り手振りも交えて必死に説明するが、なかなか分かってもらえない時があってへこんだりもする。本当の意味で英語がペラペラになりたいので、いつかそのうち英会話学校に通おう。と心の奥底で誓ってから、昼になるちょっと前の運行を出発するのは、今日で何回目だろう。
しかし一度出発すれば、バス運転士としての仕事に集中するので、ほどよく緊張して始発のバス停につけて後ろのドアを開けた。平日というのもあるのだろう。観光客らしき人がほんの3人だけ乗ってくる。寂しいとは思ったが、30人でも3人でも大事な命には代わりがない。いつも通りの安全運転を約束して、もちろん声には出さなかったけど、僕はバスを発車させた。
たった3人でも楽しく会話をしてくれているので、賑やかになってほっとしたのが本音だ。というのも、最近のバスの車内は非常に静かなので、お客さんがいるのに静まり返っていると、なんとなく気まずい気持ちになってしまう時がある。しかし、間違っても僕が話しかけるわけにはいかないので、意味もなく気を使ってしまうのだ。そんな訳で、お客さんがほどよく賑やかにしてくれていると、僕にとっては助けてくれていることになる。世の中持ちつ持たれつでいいなあと心底感じる時だ。
少し横道に逸れたかもしれないが、僕の運転するバスは横道に逸れるはずがないので、決められたコースをのんびり進んでいった。すると、あるバス停に何か気になる集団がいるのを発見してしまったのだ。その集団とは、カメラを持った人が2、3人と、それを守るかのような人が4、5人、そしてカメラに映されているであろう人が一人いる。出演者だと思われる明らかにオーラを放っている一人と、ほとんど無意識に僕は目が合うのを嫌い横目でちらっと見ただけで、その集団を後ろのドアに合わせてバスを停めた。




